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ある冬の朝、駅の改札の前で、私はぴたりと立ち止まりました。財布がない。バッグを何度探っても、どこにもない。

改札を抜けられないまま、後ろから来る人の流れに焦りながら、頭の中が一瞬、真っ白になりました。

あのときの感覚、今でも覚えています。恥ずかしさと、情けなさと、それから――不思議なことに、少しだけ笑えるような、あたたかいような気持ち。

今日は、その「忘れた」という体験が、どのように私の毎日をやさしく変えてくれたか、というお話をしたいと思います。

監修・執筆:グレイス(dailynukumori.com 編集者)

本記事は1,687冊の蔵書(心理学・神学・哲学・文学)と運営者の体験記録をもとに執筆しています。最終更新:2026-05-19

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第1章:駅で財布を忘れた朝のこと

あの朝のことを振り返ると、私はいつもより少しだけ急いでいました。息子の弁当箱を洗って、洗濯機を回して、メールの返信をして――何かを考えながら何かをしていた、そんな典型的な朝でした。

財布を置き忘れた理由は、今でも正確にはわかりません。たぶん、充電器のそばに置いて、そのまま忘れたのだと思います。でも肝心の「置いた瞬間」が、記憶にまったく残っていなかった。

改札の前で立ち往生した私は、駅員さんに事情を話し、自宅まで戻りました。電車は2本遅らせることになりました。

その帰り道、ふと思ったんです。
「私って、最近こういうことが増えてきた気がするな」と。

うっかり、というのはいつも突然やってくる。でも振り返ってみると、たいてい「同時にいくつものことを考えていた瞬間」だと気づきます。

私自身、40代に入ってから、小さな”忘れた”が増えていることに気づいています。名前がすぐに出てこない。昨日の夕食が思い出せない。「あれ、もう取り込んだっけ」と洗濯物を二度見しに行く――そういう瞬間が、20代のころより確実に多くなりました。

あなたにも、そういう経験はありませんか?

この章のポイント

「忘れた」の多くは、注意が分散していた瞬間に起きる。40代からの”うっかり増加”は、多くの人が経験していることです。

第2章:40代から増える”うっかり”の正体

「もの忘れが増えた気がする」――40代になったとき、そう感じる方はとても多いです。

ただ、これには正確な説明があります。「ワーキングメモリ」という概念をご存じでしょうか。

認知心理学者のバデリー(1986)が提唱したこの概念は、「脳の作業机」のようなものです。今この瞬間に必要な情報を一時的に保持して処理する能力のこと。財布を持ったことを覚えておきながら、同時に弁当箱を洗う――そういう「同時並行処理」を担っているのが、このワーキングメモリです。

そして、このワーキングメモリの処理容量は、加齢とともに少しずつ変化することが知られています。20代と比べて、40代・50代では処理の「幅」が変わってくる。これは、病気ではなく、自然な変化です。

さらに、カーネマン(2011)が『ファスト&スロー』で示した思考の二重過程理論によれば、私たちの脳には「速い思考(自動的・直感的)」と「遅い思考(意識的・論理的)」の2つのシステムがあります。忙しい朝に複数のことをこなすとき、私たちは省エネのために「速い思考」を多用する。その結果、財布を置いた「小さな行動」は意識に残らないまま処理されてしまう――これが「忘れ物」の正体の一つです。

「忘れた」の多くは、記憶力の問題ではなく、注意の問題です。あなたの脳が悪いのではない。ただ、同時にたくさんのことをこなしていただけ。

初めて「あ、また忘れた」を笑えるようになったのは、ある日の夕方のことでした。夕食の準備をしながら「あれ、コンロの火を消したっけ」と何度も確認しに行く自分を見て、夫が「もはや確認ルーティーンになってるよね」と笑ったんです。なぜか、そのひと言でふっと力が抜けました。

「忘れること」は欠陥ではなく、脳が必死に働いているサインかもしれない。そう思えたとき、少しだけ自分にやさしくなれた気がしました。

表1:「うっかり」の正体3類型

タイプ よくある場面 おもな原因
注意散漫型 スマホを見ながら財布を置き忘れる 同時並行タスクの負荷
ワーキングメモリ変化型 人の名前がすぐ出てこない 加齢による自然な変化
不安・疲労型 家のカギをどこに置いたか思い出せない ストレス・睡眠不足・疲労蓄積
この章のポイント

40代の”うっかり”は、記憶力の衰えではなく、ワーキングメモリの使われ方の変化と注意分散が主な理由です。脳は今日も一生懸命働いています。

第3章:忘れるたびに自分を責めていた私

正直に話すと、以前の私は、忘れるたびに自分を責めていました。

「また忘れた。なんで私はいつもこうなんだろう」

「ちゃんとしなきゃ。もっとしっかりしなきゃ」

そのたびに、胸の中に小さな罪悪感が積み重なっていきました。財布を忘れた日は、一日中なんとなく気持ちが沈んでいた。約束の時間に5分遅れただけで、必要以上に謝り続けた。鍵をかけたかどうか不安になって、職場についてから家に電話した――そういうことが、よくありました。

完璧にこなさなければ、という感覚。それがどこから来たのかは、自分でもよくわかりません。でも、それは確実に、私の毎日を少しずつ重くしていました。

「ちゃんとしなきゃ」という言葉は、真面目さの裏返し。でも、それが続くと、自分を守るための鎧が、やがて自分を傷つけるものになってしまうことがあります。

あの頃の私に、今の私が声をかけられるとしたら、こう言いたいです。

「大丈夫。忘れることは、あなたが一生懸命生きていたからだよ」と。

この章のポイント

自分を責める癖は、完璧主義の裏返し。「忘れた」を責める時間より、「次にどうするか」を考える時間の方が、ずっとあなたをやさしくします。

第4章:脳科学が示す”忘れる”ことの意味

「忘れること」は、脳の失敗ではない。むしろ、脳が正常に機能している証拠かもしれない――そんな研究結果が、近年の神経科学から示されています。

私たちの脳は、1日に膨大な量の情報を受け取ります。視覚、聴覚、感情、判断……その全部を記憶していたら、脳はすぐにパンクしてしまう。だから脳は、意図的に「必要でない情報を消去する」という働きをしています。これを「能動的忘却」と呼ぶ研究者もいます。

記憶の仕組みを簡単に整理してみましょう。

図表4:記憶の旅と「忘れる」が起きる場所

情報の入力

注意・感知

ワーキングメモリ

海馬で固定

長期記憶

「忘れる」が起きやすい場所:注意の段階(そもそも感知しなかった)/ ワーキングメモリの段階(保持できなかった)

財布を置き忘れた朝の私は、「注意の段階」で情報を取り込めていなかった。弁当箱のことを考えながら財布を置いたとき、「財布を置いた」という出来事が、そもそも脳にきちんと入力されなかったのです。

これは、脳の病気ではありません。注意が別の方向を向いていた、ただそれだけのことです。

一方、本当に心配すべきサインとしては「最近の出来事がまるごと消えてしまう」「同じことを何度も聞く」「日常的な行動の手順がわからなくなる」といった変化があります。そうした変化が続く場合は、早めに専門医に相談されることをおすすめします。でも、「財布を忘れた」「名前がすぐ出てこない」という程度であれば、多くの場合、ごく自然な脳の変化です。

図表2:忘れ物とつきあう 2×2マトリクス

横軸:自分への態度 / 縦軸:対策の有無

責める × 何もしない

罪悪感だけが積み重なる。
一番しんどいパターン。

受け入れる × 何もしない

「まあいいか」の開き直り。
気楽だけど繰り返しやすい。

責める × システム化する

完璧主義の苦しさ。
対策してもまだ責め続ける。

受け入れる × システム化する

健全な共存。
一番やさしくて続くパターン。

おすすめは右下:「そうか忘れたか、じゃあ仕組みで補おう」

この章のポイント

忘れることは「脳が取捨選択している証拠」。注意が向いていなかった情報は、そもそも記録されない。対策は「自分を責めること」ではなく「仕組みで補うこと」です。

第5章:忘れる自分とのつきあい方 3つの実践

では、実際にどうすればいいか。私が試して「これは続けられる」と感じた実践を、3つだけ紹介します。

1
かならず通る場所にメモを置く
2
「また忘れた」を笑える練習をする
3
家族と「忘れてもいい」約束をする

実践1:かならず通る場所にメモを置く

財布・鍵・スマホ――これらを毎回「指定席」に置くだけで、忘れ物は劇的に減ります。脳に頼るのではなく、「環境」に頼る発想の転換です。

実践2:「また忘れた」を笑える練習をする

これが一番難しくて、一番大切だと感じています。「あ、またやった」と気づいたとき、すぐに責めるのをやめて、まず一呼吸おく。「まあ、人間だもの」と心の中でつぶやく。それだけで、一日の重さが少し変わります。

実践3:家族と共有する

「私、最近忘れっぽいから、気づいたら教えてね。でも責めないでね」という約束を家族と交わす。これが、思いのほか効きました。

3つの実践チェックリスト
  • 冷蔵庫・玄関など、かならず通る場所にメモ・定位置を作った
  • 「また忘れた」と気づいたとき、笑えた(責めずにいられた)
  • 家族と「忘れた人を責めない」約束をした

私の場合は、まず冷蔵庫の前にメモを貼ることから始めました。「財布・鍵・スマホ→確認した?」とだけ書いたA5の紙。不格好だけど、これがびっくりするほど効いた。環境を変えることは、自分を変えることより、ずっとやさしい方法です。

この章のポイント

「忘れない自分になろう」ではなく「忘れてもいい仕組みを作ろう」。この発想の転換が、毎日をやさしくします。

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第6章:家族との”忘れ物会議”が始まった日

実践3の「家族と共有する」には、最初少し勇気がいりました。

夫に「最近、忘れっぽくなった気がするんだよね」と話したとき、正直、笑われるかなと思っていました。でも夫は「俺も全然そうだよ。昨日、会議の資料をプリントしたの忘れてたし」と言ったんです。

なんだ、みんなそうなんだ、と。

その日から、我が家では「忘れた」を責めない、という暗黙のルールができました。息子も参加して、「お母さんが忘れたら教える係」「お父さんが忘れたら笑う係」みたいな、ゆるい役割分担が生まれた。

「忘れ物会議」と名付けたのは、息子です。週末の夕食後に、「今週の忘れ物報告」をする小さな時間。誰が何を忘れたかを笑いながら話す、たったそれだけの時間が、家族の空気を少し変えました。

「完璧な親でいなければ」という重さを手放したとき、子どもとの関係は少しだけやわらかくなった気がします。

この章のポイント

「忘れた」を共有することは、弱さを見せることではなく、家族の空気をやわらかくする会話の入口になります。

第7章:忘れることで、私はやさしくなれた

この章は、少し個人的な話をさせてください。

ある夜、息子が「お母さん、また忘れたの?」と笑った時のこと、今でもよく覚えています。

その日、私はお迎えの時間を15分間違えていました。体育館の前で待っていた息子を、私は正面玄関で待ち続けていた。すれ違いに気づいたのは、息子からのラインでした。「お母さん、どこにいる?」

駆け寄って謝る私に、息子は怒るでもなく「まあいいよ、今日は天気よかったし。外にいたら清々しかったよ」と言った。そして「お母さんって最近よく忘れるよね、ちょっと心配」と付け加えて、でもその言い方がとても柔らかかった。

あのとき、私は思ったんです。

あ、この子は私の「できないこと」をちゃんと見てくれているんだ、と。完璧な親でいなくてよかった、と。

忘れることで、私は少しだけ、「ちゃんとしなきゃ」の鎧を脱げた気がしました。弱さを見せることで、息子との距離が縮まった。それは、財布を完璧に管理していたころには、たぶんなかった体験です。

気づいたこと

「忘れた」という体験は、完璧でいることをやめるきっかけをくれます。そしてそれは、大切な人との関係をやわらかくする入口になることがあります。

この章のポイント

忘れることは、完璧主義の鎧を脱ぐきっかけになる。弱さを共有することで、かえって関係がやさしくなることがあります。

第8章:それでも不安な夜は、ひとりで抱え込まない

ここまで「忘れること」のやさしい側面を見てきましたが、それでも――「もしかして、これは普通じゃないのかな」と不安になる夜は、誰にでもあると思います。

そういう夜のために、いくつかのことをお伝えしたいと思います。

まず、「生活に支障があるか」を確認してください。

財布を忘れる、名前がすぐ出てこない――これらは、多くの場合、日常の範囲内の「うっかり」です。一方、同じことを何度も繰り返し聞いてしまう、昨日のことがまるごと思い出せない、日課の手順が急にわからなくなった、という変化が続く場合は、早めに専門医に相談することをおすすめします。個人差があるため、「気になる」と思ったら一人で判断せず、まず専門家の話を聞いてみてください。

また、メンタルヘルスの面でも、「忘れること」への過剰な不安や、自己否定が続く場合は、心理士やカウンセラーに相談することが有効な場合があります。

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本記事の内容は一般的な情報提供を目的としており、医療・診断の代替となるものではありません。気になる症状がある場合は、必ず専門医にご相談ください。また、個人差がありますので、体験はあくまで参考としてお読みいただければ幸いです。
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この章のポイント

「うっかり」の多くは日常の範囲内。でも、気になるサインが続くときは、一人で抱え込まず専門家へ。不安をひとりで消化しようとしなくて大丈夫です。

第9章:忘れることが、人生をやさしくしてくれる

秋の終わりの朝、コーヒーを淹れながら、ふと思ったことがあります。

私はこの1年で、「忘れた」と言える自分になれた気がする、と。

以前の私だったら、「また忘れた」と気づいた瞬間に、もう心の中で自分を責め始めていた。でも今は、「あ、また忘れた。まあいいか」とつぶやける日が、少しずつ増えています。

私の本棚にずっと残っている一冊があります。著者名は特にここでは触れませんが、その本が伝えているメッセージは、こんなふうに私の心に残っています。「忘れ物には、その人が一生懸命に生きていた証拠が宿っている」という視点。忘れることを責めるのではなく、そこにある「温もり」に気づく、という読み方。

はじめてそのメッセージに触れたとき、私は少し泣きました。忘れることを、ずっと恥ずかしいことだと思っていたから。でも、違うかもしれない。「忘れた」のではなく、「そのとき、全力で別のことに向き合っていた」ということかもしれない、と。

忘れることは、欠点ではなく、人間らしさの証拠かもしれません。それは、やさしさと表裏一体にある。

40代になって増えた”うっかり”を、私はもうあまり責めません。それより、今日もいくつかのことを覚えていられた自分を、少しだけ褒めたいと思っています。

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まとめ:忘れることは、覚えていることと同じくらい大切

今日のまとめ

40代からの”うっかり”は、脳の失敗ではなく、自然な変化です。

  • 「忘れる」の正体は、注意の分散とワーキングメモリの使われ方の変化
  • 脳科学的に、忘却は「能動的な取捨選択」。記憶しないことも、脳の大切な仕事
  • 自分を責める代わりに、「仕組みで補う」という発想が毎日をやさしくする
  • 「忘れた」を家族と共有することで、関係がやわらかくなることがある
  • 不安が続くときは、一人で抱え込まず、専門家に相談してほしい

忘れることを責めるより、忘れながらも今日を生きた自分を、少しだけ褒めてあげてください。それが、毎日をやさしくする最初の一歩だと、私は思っています。

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最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
あなたの毎日が、少しだけやさしくなりますように。

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グレイス
考察好きなブロガー。「問いのアトリエ ─ 心・信・史・美」を運営。心理・哲学・歴史・美意識をめぐる長文の考察記事を中心に執筆中。