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✍ エッセイ心に寄り添う読み物

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「でも、感謝してます」

その一言を言うとき、自分の口のあたりを観察したことがあるだろうか。下あごが少し前に出て、頬の筋肉が持ち上がり、声のトーンがふっと一段やわらかくなる、あの感じを。

私はある。誰かに、最近あった大変な出来事を話したあとだ。理不尽な異動のこと、眠れない夜のこと、頭から離れない言葉のこと。ひととおり吐き出して、相手が静かに聞いてくれて、それで十分なはずだった。なのに別れ際、相手が少し痛ましそうな顔をして、その沈黙が長くなる前に、私の口は勝手に動きだす。「まあ、でも、おかげでいろいろ学べたというか、感謝してます」。言い終えた瞬間、自分の声が少しだけ上ずっていたのを覚えている。本当はそんなこと、これっぽっちも思っていなかったのに。

言い終えると、たしかに小さな安堵がある。場の空気がほどける。相手も「そうだよね、無駄じゃなかったよね」とうなずいてくれる。けれどその安堵のすぐ裏側で、私はいつも、口の中にまだ飲み込んでいない一言が残っているのを感じる。さっき口が勝手に作った笑顔の下で、何かが静かに削られた感触がある。

なぜ、あの一言を足してしまったのだろう。

尾ひれは、誰のためについているのか

私はこの「でも、感謝してます」を、しばらく尾ひれと呼んでいる。魚の尾ひれのように、話の本体のうしろにちょこんとついて、全体の向きを整えてくれる小さなパーツ。それがあると話は前に進み、座りがよくなる。けれど、その尾ひれが本当に自分の実感から生えてきたものなのか、あやしいときがある。

たぶん、半分は相手のためだ。生のままの痛みは、聞かされた相手を困らせる。どう反応していいかわからない苦しみを、目の前に置きっぱなしにするのは申し訳ない。だから私たちは、痛みをきれいに包装して渡す。「もう大丈夫です」「学びになりました」というリボンをかけて。「成長できた」と言っておけば、相手は安心して「よかったね」と返せる。会話に出口ができる。私たちはどうやら、人を出口のない部屋に置き去りにするのが、ひどく苦手らしい。

けれど、もう半分は、たぶん自分のためだ。未解決のまま、答えの出ないまま、ただつらいだけの状態でいることに、私は耐えられない。意味のない苦しみというものを、心のどこかが認めたがらない。「これは無駄ではなかった」と思えれば、苦しみは投資になる。けれど「ただ痛かった、それだけだった」と認めるのは、損を損のまま受け入れるようなもので、私はそのやり方を知らない。だから、まだ血の出ている傷口に、成長の物語を先回りして貼る。

これは、悪いことではない。意味づけは人を立ち上がらせる。ただ、私がここで立ち止まりたいのは、その手前のことだ。「成長できました」の一言で要約したとき、要約からこぼれ落ちて、口の中で削られて飲み込まれた、もっと正直な言葉のほうだ。

「本当は、まだ全然立ち直っていない」。「意味なんて、ひとつも見つからない」。「ただ、つらかった。それだけだ」。

その言葉たちには、居場所がないのだろうか。

救いのないまま終わる言葉

ここで少しだけ、祈りの話に踏み込みたい。といっても、誰かを信仰へ誘うためではない。むしろ逆だ。古くから人が神に向けてきた言葉のなかに、私たちが普段やっている「尾ひれ」とは正反対のかたちが、たしかにある、ということを言いたいのだ。

その伝統のなかには、奇妙な言葉がある。神に向かって嘆き、訴え、ときには「なぜ放っておくのか」と詰め寄り、そして──救いも感謝もないまま、ぷつりと終わってしまう言葉。最後に「でも感謝してます」がついていない。「おかげで成長しました」もない。明るい着地を一切用意せず、暗いまま、ほどけないまま、置き去りにされたように閉じる。

私が驚くのは、そういう言葉が「削られずに残った」という事実のほうだ。長い時間のあいだに、誰かが「これは暗すぎる」「最後に希望を一行足そう」と手を入れてもおかしくなかった。「神を疑うような言葉は外しましょう」と。けれど、そうされなかった嘆きがある。成長の尾ひれをつけられないまま、生のまま、置かれている。誰かが、それを消さずに残す価値のある言葉だと判断したということだ。

つまりこういうことだ。私たちが日常で尾ひれをつけて切り落としているあの部分──意味に変換できない、回復しない、ただ痛いだけの嘆き──を、その古い言葉は切り落とさなかった。そして、それでも一つの言葉として、祈りとして、成立していた。

私はそこに、ひとつの権利のようなものを感じる。嘆きには、回復しないまま終わってよい権利がある、という感覚だ。すべての痛みが成長に変わらなくてもいい。すべての涙が「あのとき泣いてよかった」に着地しなくてもいい。意味になりそこねた苦しみにも、削られずに残る場所がある。少なくとも、その伝統のなかには、あった。これは、私が日々こしらえている尾ひれとは、まるで逆の作法だ。

保持と反芻──同じ「手放さない」が分かれるところ

ただ、ここで安易に喜んではいけない。

「痛みは手放さなくていい」と聞くと、私たちはすぐに楽になりたがる。けれど、ここで私は自分に向かって、いじわるな問いを立ててみる。ではお前は、つらかったことをいつまでも手放さず、何度も思い返して、解決もせずに抱え続けていればいいのか。それは結局、過去にこだわって前に進めない、後ろ向きな態度と、どこが違うのか。

これは、痛い問いだ。手放さない痛みが、しばしば人を内側から蝕むことを、多くの人が知っているはずだから。同じ場面の同じ一言を、向ける相手もなく、ただ自分の中で何度も再生する。「あのとき、ああ言えばよかった」「なぜ自分だけが」。最初は痛みを噛みしめているつもりが、やがて噛みしめること自体が習慣になり、痛みは新鮮さを失わないまま、心の同じ場所をすり減らしていく。それは祈りどころか、夜ごと自分を消耗させていく病のようなものだ。

すると、矛盾するように思える。一方で「嘆きは回復しないまま残してよい」と言い、他方で「手放さない痛みは病になる」と言う。どちらも本当なら、その境目はどこにあるのか。

私はずいぶん長くこの問いの前に立っていた。そしてたどり着いたのは、違いは解決の有無ではない、という考えだ。どちらも解決していない。違うのは、宛先だ。

私はそれを、保持と反芻という二つの言葉で区別している。反芻は、宛先が自分しかいない。つらさを、自分の頭の中だけで回す。自分が裁判官で、自分が被告で、自分が傍聴席だ。誰にも渡さない。閉じた円の中で、痛みは行き場をなくして、自分の内側を循環し、濃くなり、やがて自分を消化していく。

保持は、違う。痛みを手放さないことは同じだ。けれど、それを自分の中で回すのではなく、自分の外の誰かの前に──神の前に、と私は言いたいのだけれど──置き続ける。「成長できました」とも言わず、「もう大丈夫」とも言わず、ただ「これは痛いです、まだ痛いです」と差し出したまま、引っ込めない。痛みは消えていない。問題は何ひとつ片づいていない。けれど、その痛みは、もう私だけのものではなくなっている。

ここが、よく似たものとの分かれ目になる。痛みを書き出す、自分をいたわる、自分の感情を自分で認める。そうしたやり方も、確かに私たちを助けてくれる。それはそれで、必要なことだ。ただ、その宛先は、たいてい自分自身だ。自分が自分に語りかけ、自分が自分をなだめる。突き詰めると、それは反芻と同じ円の中にいる。閉じた円の中では、慰める自分も、慰められる自分も、同じだけ疲れている。

委ねる、というのは、その円を破ることだ。しかも、「これを解決してください」とお願いするのですらない。解決を条件にして差し出すなら、それはまだ取引で、円は半分しか開いていない。そうではなく、解決するかどうかは相手にゆだねたまま、生のままの痛みを、別の手に渡す。意味づけは、渡された相手にまかせる。私は、意味を知らないままでいい。痛みを成長や感謝に変換せず、未解決のまま、神の前に置きっぱなしにする。これが、私の考える「信」の、いちばん奥にあるものだ。

置いておけばいい、で終わらせないために

──と、ここまで書いて、私は自分の文章を疑う。

「ありのままでいい」という手垢のついた結論を避けたくて書いてきたのに、その代わりに「神の前に置いておけばいい」という、もうひとつのきれいな結論を用意しようとしている。「でも、感謝してます」を「でも、委ねてます」に言い換えただけなら、私はまた同じことをしている。置く、という動詞を、いつのまにか済ませる、にすり替えている。

正直に言えば、宛先がいる、ということは、そんなに安らかなことではない。

自分の中で反芻しているときのほうが、ある意味では楽なのだ。宛先が自分だけなら、誰にも応答を期待しなくていい。見られている緊張もない。痛みを自分の所有物として、好きなだけ抱えていられる。けれど、それを誰かの前に置いた瞬間、私はその誰かの視線のなかに入る。返事は、すぐには来ない。来ないまま、私は問いを抱えて待つことになる。置いたのに、軽くならない夜がある。来たとしても、私の望む返事とは限らない。宛先がいるからこそ、私の問いは宙に消えず、答えを待つかたちで残り続ける。それは、誰もいない部屋でつぶやくより、ずっと落ち着かない。

委ねるというのは、その意味で、自分の手の中の確かさを手放すことだ。落ち着くための行為ではなく、むしろ落ち着けなくなる行為かもしれない。自分の頭の中で回しているほうが、よほど勝手が知れていて、安全だったかもしれない。

たぶん、信仰が約束してくれるのは、痛みが消えることでも、意味が分かることでもない。正直なまま、削らないまま、その誰かと一緒にいられる、ということだけだ。まだ痛い、まだ分からない、まだ許せない──その削られなかった言葉を全部抱えたまま、それでも、一人ではない場所にいられる。

だから今日は、いつもの尾ひれを、急いでつけないでおこうと思う。口が勝手に「でも、感謝してます」と動きだす、あの一瞬。その手前で立ち止まって、削られかけた言葉をそっと拾い上げ、笑顔に変えずに、誰かの前に差し出してみる。「つらかったです」で終わらせて、その先を、自分ではない誰かに向かって、開いたままにしておく。

そこに残るのは、安堵でも空虚でもない、もっと落ち着かない何かだ。宛先がいる、という落ち着かなさ。その誰かのほうを、正面から見つめきれないまま、しかし確かにそこにいると知りながら、私はまだ、その一言を、急いで閉じずにいる。


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グレイス
考察好きなブロガー。日々の心の重荷を、心理・思想・歴史・暮らしの知恵から静かにほどく——そんな長文の読み物を「日常の温もり」で綴っています。