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📘 この記事は 40代の「手放す」完全ガイド の一部です

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抱え込んだまま、眠れない夜に

夜中の二時、天井をぼんやり見つめながら、明日のこと、来週のこと、まだ起きてもいないことまで頭の中で何度もくり返してしまう。そんな夜を、あなたも過ごしたことがあるのではないでしょうか。

仕事の段取り、家族のこと、親の体調、子どもの将来、自分の老後。ひとつ片づけたと思ったら、また次の心配が顔を出す。布団の中で目を閉じても、頭だけが冴えていく。明日に響くとわかっているのに、考えるのをやめられない。「私がちゃんとしなければ」「私が見ていないと回らない」――そんな声が、心のどこかでずっと鳴り続けている。

四十代という時期は、不思議なものだと思います。若い頃に比べて、できることは確かに増えました。任される範囲も広がり、頼りにもされる。けれどその分、いつのまにか両手いっぱいに荷物を抱えていて、もう一つも乗らないところまで来ている。それでもなお、「これも私が」「あれも私が」と手を伸ばしてしまう。気がつけば、休む時間さえ自分で奪っている。

今日は、そんな「抱え込み」について、私自身の考えごととしてゆっくり書いてみたいと思います。結論から先に申し上げると、私はこの頃、心が軽くなる入り口は「もっと頑張ること」ではなく、「コントロールを手放すこと」のほうにあるのかもしれない、と感じるようになりました。とはいえ、これは答えではありません。あくまで、四十代の半ばで立ち止まって考えた、ひとつの問いのようなものです。

なぜ私たちは、こんなにも抱え込むのか

そもそも、どうして私たちは抱え込んでしまうのでしょう。怠けたいわけでも、無責任になりたいわけでもありません。むしろ逆で、まじめで、責任感が強くて、人に迷惑をかけたくないと思っている人ほど、ひとりで背負い込んでしまう。これは、少し皮肉なことだと思います。

抱え込みの正体を、私はこう捉えています。それは、「全部、自分で何とかしようとすること」です。目の前で起きていること、これから起きるかもしれないこと、人の気持ち、結果のすべて――そのひとつひとつを、自分の手のひらの上で完全にコントロールしようとする。うまくいかない可能性を、自分の努力で一つ残らず潰しておこうとする。その姿勢が、知らないうちに私たちを疲れさせていきます。

もちろん、ある程度のコントロールは必要です。段取りを整え、先を見通し、備えておくことは、暮らしを支える大切な力です。問題は、その範囲が際限なく広がってしまうこと。本来は自分の手に負えないはずのことまで、「私が何とかしなければ」と握りしめてしまうこと。そこに、苦しさが生まれるのだと思います。

たとえば、こんな経験はないでしょうか。相手の機嫌をそこねないように、先回りして気をつかう。あの人がどう思うか、嫌われていないか、ずっと気にしている。けれど、よく考えてみれば、他人がどう感じるかは、最終的にはその人の心の中の出来事です。私がどれだけ言葉を選んでも、相手の受け取り方そのものを、私が決めることはできません。それでも私たちは、相手の感情まで自分の責任の範囲に入れて、勝手に重くなってしまう。

あるいは、子どもの将来。健康のこと。組織の方針。天気や景気。世の中の流れ。挙げていけばきりがないほど、私たちの心配の多くは、「自分の力ではどうにもならないこと」に向けられています。どうにもならないとわかっているのに、考えるのをやめられない。むしろ、どうにもならないからこそ、いっそう強く握りしめてしまう。手放したら、もっと悪いことが起きる気がして。

抱え込みとは、煎じつめれば「不安を、コントロールで何とかしようとする試み」なのかもしれません。けれど、コントロールできないものをコントロールしようとすればするほど、不安は減るどころか、ふくらんでいく。砂を強く握れば握るほど、指の間からこぼれていくように。

「手放す」は、あきらめではない

ここで、ひとつ大事なことを書いておきたいと思います。それは、「手放す」という言葉を、どうか「あきらめ」や「投げやり」と混同しないでほしい、ということです。

手放すと聞くと、なんだか冷たい響きに感じる方がいるかもしれません。「もうどうでもいい」「勝手にすればいい」――そんな、突き放したような態度を思い浮かべるかもしれない。けれど、私がここで言いたい「手放す」は、まったく逆のものです。

投げやりというのは、自分にできることまで放り出してしまうことです。本当はできるのに、面倒だから、傷つきたくないから、最初から関わるのをやめてしまう。それは、心を閉じる方向の行為です。

一方、ここで言う「手放す」は、自分にできることはきちんと尽くしたうえで、自分の手に負えない部分を、大きな流れに信じて任せることです。やるべきことから逃げるのではなく、やるべきことをやったあとで、結果まで握りしめるのをやめる。これは、心を開く方向の態度だと、私は思っています。

同じ「手放す」でも、向きが正反対なのです。
投げやり=できることまで放り出して、関わるのをやめる(閉じる)
前向きな手放し=できることは尽くし、できない部分だけを流れに任せる(開く)

畑仕事を思い浮かべると、わかりやすいかもしれません。土を耕し、種をまき、水をやる。それは私たちにできることです。けれど、その種がいつ芽を出すか、どんな天気になるか、どれだけ実るか――それは、私たちの手の届かないところにあります。良い農夫は、できる手入れをすべてしたうえで、あとは天と土の働きに任せます。毎晩、土を掘り返して「まだ芽が出ない」と確かめたりはしません。それをすれば、かえって種をだめにしてしまうからです。

手放すとは、この「任せる」に近いのだと思います。何もしないことではなく、すべきことをしたうえで、その先を信じること。あきらめではなく、むしろ深い信頼のかたちなのです。

自分にできること、できないこと――線を引いてみる

では、具体的にどう手放せばいいのか。ここで私が支えにしているのが、ある古い哲学に伝わる、とてもシンプルな考え方です。それは、「物事を二つに分けてみる」という発想です。

はるか昔、地中海のほとりで暮らした人々のあいだに、こんな知恵があったそうです。世の中の物事は、大きく二種類に分けられる。ひとつは「自分次第のこと」、もうひとつは「自分次第ではないこと」。そして、心の平穏は、この二つをきちんと見分けることから始まる、と。

「自分次第のこと」とは、自分の意志や行動で変えられるものです。今日、何に時間を使うか。どんな言葉を選ぶか。目の前の仕事にどう取り組むか。人にどう接するか。自分の心構えをどう保つか。これらは、ささやかではあっても、確かに私の手の中にあります。

一方、「自分次第ではないこと」とは、どれだけ望んでも自分の力では動かせないものです。他人の感情や評価。過去に起きてしまったこと。明日の天気。世の中の景気。人の生き死に。相手が変わってくれるかどうか。これらは、私がどれほど気をもんでも、私の手では一ミリも動きません。

この古い知恵が教えてくれるのは、「自分次第ではないこと」に心を奪われている限り、人は苦しみ続ける、ということです。動かせないものを動かそうとして、力を使い果たし、それでも動かなくて、また自分を責める。その無限のループから抜け出す唯一の鍵が、「これは自分の領域の外だ」と見極めて、静かに手放すことなのだ、と。

心配ごとに出会ったら、一度こう問うてみる。
「これは、私の力で変えられること? それとも、変えられないこと?」

変えられることなら――できる一歩を、ひとつだけ。
変えられないことなら――それは、私の荷物ではないのかもしれません。

この問いの良いところは、白黒をはっきりさせてくれることではありません。むしろ、「自分が背負わなくていい荷物」を、そっと下ろさせてくれるところにあります。

たとえば、職場で誰かが理不尽な態度をとってきたとします。私たちはつい、「どうしてあの人はああなのか」「どうすれば変わってくれるのか」と、相手のことで頭をいっぱいにしてしまう。けれど、その人がどう振る舞うかは、結局のところ、その人次第です。私の領域の外にある。私にできるのは、その出来事に自分がどう向き合うか、自分の心をどう保つか――そこだけです。線を引いてみると、抱えていた荷物の半分くらいは、実は「もともと私のものではなかった」と気づくことがあります。

もちろん、これは冷たく突き放すこととは違います。相手を気にかける気持ちは、そのまま大切にしていい。ただ、「相手を変えること」と「相手を思うこと」は、別のものだと分けておく。変えられない部分まで自分の責任にしてしまうと、思いやりは、いつのまにか自分を追いつめる縄に変わってしまいます。

「受け入れる」という、もうひとつの考え方

もうひとつ、心の分野で語られている考え方にも触れてみたいと思います。それは、「受け入れる」(アクセプタンス)という態度です。これは断定できる話ではなく、あくまで「こういう見方がある」という程度に受け取っていただければと思います。感じ方には、もちろん個人差があります。

私たちはふだん、嫌な気持ちや不安が出てくると、それを何とか追い払おうとします。「こんなことで落ち込んではいけない」「不安なんて感じてはいけない」と、自分の感情と戦おうとする。けれど、不思議なことに、感情というのは押さえつけようとするほど、強く跳ね返ってくる性質があるようなのです。「考えないようにしよう」と思った瞬間、かえってそのことばかり考えてしまう。あの感覚に、覚えのある方も多いのではないでしょうか。

「受け入れる」という考え方は、ここに別の道を示します。不安や悲しみと戦うのをやめて、「今、自分はこう感じているんだな」と、ただ認めてあげる。消そうとするのでも、ふくらませるのでもなく、ひとまずそこに置いておく。すると、不思議と少しだけ、その感情との距離がとれる――そう語られることがあります。

これも、「コントロールを手放す」という同じ流れの上にあるのだと、私は思います。自分の内側に湧いてくる感情でさえ、完全にはコントロールできない。だとしたら、戦って打ち負かそうとするより、「来たね」と迎え入れて、通り過ぎるのを待つほうが、結果として楽になることがある。波と同じで、抗って立っていようとすると倒されますが、力を抜いて身をゆだねると、波はやがて引いていきます。

不安そのものをゼロにする、という話ではありません。不安は、生きている限り、たぶんずっと隣にいます。ただ、その不安を「敵」として握りしめて戦い続けるのか、「同行者」としてそっと隣に置いておくのか――その向き合い方ひとつで、心の重さはずいぶん変わってくるのかもしれない。私はそんなふうに感じています。

日常での、小さな手放し方

とはいえ、「コントロールを手放しましょう」と言葉で言うのは簡単でも、いざ実践となると、なかなか難しいものです。長年の癖は、そう簡単には抜けません。ですからここでは、私自身が日々の暮らしの中で試している、ささやかな手放し方をいくつか書いてみたいと思います。立派な方法ではありません。けれど、小さなことの積み重ねが、案外、心の風通しを良くしてくれるように思うのです。

一.「これは誰の荷物か」と、一度問う

何かに胸がざわついたとき、私はまず、こう問うようにしています。「これは、私が背負うべき荷物だろうか」と。先ほどの線引きを、その場でやってみるのです。

たとえば、家族が浮かない顔をしている。すると私はつい、「私が何かしたかしら」「私が何とかしてあげなきゃ」と、相手の気分まで自分の責任にしてしまう。でも、立ち止まって問うてみる。その人の機嫌は、その人のもの。私にできるのは、温かいお茶を一杯入れることくらいで、その先の心の動きは、その人自身に任せるしかない。そう考えると、ふっと肩の力が抜けます。心配を手放すことは、相手を信頼することでもあるのだと、最近は思うようになりました。

二.「夜の考えごと」は、朝に持ち越す

夜中に押し寄せてくる心配ごとには、ひとつ特徴があります。それは、たいてい、その場では何ひとつ解決できないということです。夜の二時に思い悩んだところで、電話もかけられず、動くこともできない。ただ不安だけが、暗い部屋でふくらんでいく。

ですから私は、夜にやってくる考えごとには、心の中でこう声をかけることにしています。「それは、明日の私に任せましょう」と。今ここでコントロールしようとするのをやめて、判断を明るい時間に預けてしまう。枕元に小さなメモ帳を置いて、気になることを一行だけ書きつけて、「はい、預かりました」と本を閉じるように手放す。書き出すと、頭の中をぐるぐる回っていたものが、外に出て、少しおとなしくなってくれる気がします。

三.「ちゃんと」を、ひとつ手放してみる

抱え込みやすい人ほど、「ちゃんとしなければ」という思いを、たくさん抱えています。料理はちゃんと手作りで。部屋はちゃんと片づいて。仕事はちゃんと完璧に。人付き合いもちゃんと。――その「ちゃんと」のひとつひとつは美しいけれど、全部を完璧に握りしめていたら、両手はふさがって、何も受け取れなくなってしまいます。

そこで、たまには「ちゃんと」をひとつだけ、意識して手放してみる。今日は出来合いのお惣菜で済ませる。返信を一日待ってもらう。掃除を明日に回す。最初は落ち着かないかもしれません。でも、たいていの場合、それで世界は崩れません。「完璧でなくても、ちゃんと回っていく」――その小さな実感が積み重なると、握りしめていた手が、少しずつほどけていきます。

四.自分の手の届く、半径数メートルに戻る

世の中のニュースや、遠くの誰かの動向や、何年も先の不確かな未来。心配の多くは、「今ここ」から遠く離れた場所にあります。遠ければ遠いほど、自分の手は届かず、けれど不安だけは大きくなる。

そんなとき私は、意識して、自分の半径数メートルに戻ってくるようにしています。手の中の温かいカップ。窓の外の木の揺れ。今、目の前にいる人の声。床に差す午後の光。――遠くの「どうにもならないこと」から、近くの「今、確かにここにあるもの」へ。視線を引き戻すだけで、不思議と呼吸が深くなります。コントロールできるのは、いつだって、この手の届く範囲だけなのだと思い出すのです。

今日からの、小さな手放し
・ざわついたら「これは誰の荷物?」と問う
・夜の考えごとは一行メモして、朝の自分に預ける
・「ちゃんと」を、ひとつだけ手放してみる
・遠くの心配から、手の届く半径数メートルへ戻る

どれも、ほんの小さなことです。けれど、こうして少しずつ手をほどいていくと、ある日ふと気づきます。あれほど両手いっぱいに抱えていたはずなのに、手放しても、案外、大切なものはちゃんとそこに残っている。むしろ、手が空いたぶんだけ、今まで気づかなかった支えや、思いがけず差し出される優しさを、受け取れるようになっている。握りしめている間は、それを受け取る隙間さえ、自分でふさいでいたのだと思います。

手放した先に、残るもの

ここまで、「コントロールを手放すと、なぜ心が軽くなるのか」を、私なりに考えてきました。けれど、はじめにお伝えしたとおり、これは答えではありません。私自身、いまも上手に手放せず、夜中に天井を見つめてしまう日があります。長年の癖は、そう簡単には抜けないものです。

ただ、ひとつだけ確かに感じるのは、心が軽くなる入り口は、たぶん「もっと強く握ること」の側にはない、ということです。これ以上頑張ること、これ以上完璧にすること、これ以上すべてを自分でコントロールすること――その道の先に、安らぎはあまり見当たりませんでした。むしろ、できることを静かに尽くしたあとで、できない部分を大きな流れに信じて任せたとき、ふっと肩の荷が下りる瞬間がありました。それは、あきらめとは、まるで違う感覚でした。

抱え込むことは、けっして弱さではありません。それだけ多くを背負える、責任感の強さの裏返しです。だからこそ、その強さを、今度は「手放す勇気」のほうにも、少しだけ向けられたら――。すべてを背負える人ほど、上手に下ろせるようになったとき、本当の意味で、自由に動けるようになるのかもしれません。

最後に、答えのかわりに、ひとつの問いをあなたに残して、この文章を閉じたいと思います。

あなたが今、両手で握りしめているもの。
そのなかに、ほんとうは「あなたの力では、どうにもならないこと」が、まぎれてはいないでしょうか。

もし、そっと手を開いてみたなら――こぼれ落ちるのは、いったい何で。
そして、空いた手のひらに、新しく差し出されるのは、何なのでしょう。

その答えは、きっと、人それぞれ違います。私にも、まだわかりません。けれど、その問いを胸の片隅に置いておくだけで、今夜の眠りは、少しだけ深くなるような気がするのです。

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考察好きなブロガー。日々の心の重荷を、心理・思想・歴史・暮らしの知恵から静かにほどく——そんな長文の読み物を「日常の温もり」で綴っています。