本ページはプロモーションを含みます

📖 考える文献・思想からじっくり

📘 この記事は 40代の「手放す」完全ガイド の一部です

※ 本記事には広告(プロモーション)が含まれます。

夜、家族が寝静まったあとの台所で、ひとり冷蔵庫の前に立っている。今日こそはやめようと思っていた缶チューハイに、また手が伸びている。あるいは、寝る前だけと決めていたスマホを、気づけば一時間もスクロールしている。「明日から本気を出そう」と自分に言い聞かせながら、その「明日」がもう何度目なのか、数えるのをやめてしまった——。

そんな夜が、あなたにもあるでしょうか。私にはあります。お酒に限らず、間食、買い物、心配ごとの反芻。「やめよう」と力むほど、なぜか事態はこじれていく。40代にもなると、そういう「頑張っても変えられないもの」を、誰もがひとつやふたつ抱えているように思います。

今日ご紹介したいのは、そんな夜に灯りをともしてくれる、少し不思議な知恵です。哲学者の國分功一郎さんと小児科医の熊谷晋一郎さんの対話『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』に出てくる、アルコール依存症からの回復プログラム「12ステップ」の話。その出発点は、驚くべきことに「自分は無力だと認めること」なのだそうです。

先にひとつ、大切なことを書き添えます。依存症は意志の弱さや性格の問題ではなく、治療の対象となる病気です。「ついスマホを見てしまう」といった日常の習慣の悩みとは、分けて考える必要があります。この記事は治療法を語るものではなく、回復の現場で磨かれてきた「考え方の順序」を、日常を生きる私たちが学ばせてもらう試みです。

「なんとかしよう」とするほど、沈んでいく

依存症と聞くと、「意志が弱い人がなるもの」というイメージがまだ根強いかもしれません。けれど実際には病気であり、頼れる場所がきちんと存在しています。

もし今、ご自身やご家族のことで悩んでいたら
医療機関(精神科・依存症専門外来)のほか、各都道府県の精神保健福祉センターで相談できます。「依存症対策全国センター」のウェブサイトでは全国の相談窓口が探せますし、こころの健康相談統一ダイヤル(0570-064-556)という電話窓口もあります。AA(アルコホーリクス・アノニマス)や断酒会などの自助グループも各地で開かれています。一人で抱え込む必要はありません。

そのうえで、この本が教えてくれるのは意外な風景でした。依存症に苦しむ人は、意志が弱いどころか、「意志の力でなんとかする」という発想に人一倍強くしばられている、というのです。世界を「やるか、やられるか」で捉え、自分の身体さえも意志でねじ伏せようとする。本の中では、この「自分で自分を支配しようとする」あり方が、英語のabuse(乱用・虐待)という言葉と重ねて語られています。自分への支配の力みこそが、沈んでいく渦の中心にある、と。

深刻さの度合いこそ違え、これはお酒と縁のない人にも身に覚えのある構図ではないでしょうか。眠れない夜に「眠らなければ」と力むほど目が冴える。イライラを「抑えなければ」と思うほど、かえって爆発してしまう。「なんとかしよう」とする手そのものが、水面を叩いて自分を沈めている——そんなことが、日常にはたくさんあるように思います。

白状すると、私にも覚えがあります。健康診断の数字が気になり始めた頃、「今日から飲まない」と宣言しては、三日ももたずに缶を開ける。そのたびに「自分はなんてだめなんだ」と責め、その嫌な気分を流すためにまた一口——という小さな渦を、何度もぐるぐる回っていました。責めることが次の一杯の燃料になるという皮肉な仕組みに、当時はまったく気づいていませんでした。自分を責める声が大きい夜ほど、手は冷蔵庫に近づいていたように思います。

白旗から始まる旅——12ステップという物語

AAは1930年代のアメリカで生まれた、アルコール依存の当事者たちによる自助グループです。会費はなく、本名を名乗る必要もありません(アノニマス=匿名)。キリスト教系の運動に歴史的な出自を持ちますが、現在は特定の宗派・教団には属さないとされ、信仰の有無を問わず世界中に広がっています。その中心にあるのが「12のステップ」と呼ばれる道のりです。

おおまかな流れを、ひとつの旅の物語として私なりに整理してみます(文言は大意です。正式な表現はAAの資料をご覧ください)。

旅の場面 ステップ 何をするのか
出発 1 自分はアルコールに対して無力であり、生活が管理できなくなったと「認める」
委ねる 2〜3 自分を超えた大きな力が回復へ導いてくれると信じ、自分の意志と生き方をその力に委ねる決心をする
振り返り、償う 4〜9 「棚卸し」——自分の過去を徹底的に洗い出して認め、傷つけた人への「埋め合わせ」をしていく
歩き続け、手渡す 10〜12 棚卸しを日々くり返し、祈りと黙想のなかで道を求め、この経験を同じ苦しみのなかにいる仲間へ伝える

注目したいのは、この旅の第一歩です。ふつう、何かを克服する物語は「私はやれる」という決意から始まります。ところが12ステップは、その正反対——「私にはできない」という白旗から始まるのです。

頑張ることが正しいと教えられて育った身には、奇妙に映るかもしれません。でも、先ほどの渦を思い出すと理にかなっています。渦の中心にあったのは「意志の力で自分を支配しよう」とする力みでした。同じ道具で渦から抜け出そうとしても、渦は深くなるばかり。だとすれば、道具そのものを置くしかありません。水に落ちた人がもがくのをやめたとき、体がふっと浮かぶことがあるように、「もう自分の力では無理だ」と認めた瞬間に、初めて開く扉があるのかもしれません。

熊谷さんはこの12のステップを、能動でも受動でもない「中動態」というあり方を徹底したプログラムだ、という趣旨で読み解いています。「回復する」は私が成し遂げる行為ではなく、私を場所として起きてくる出来事——ここではそんなニュアンスと受け取っていただければ十分です。詳しくは前編にあたる記事に書きましたので、興味のある方はそちらもどうぞ。

ちなみにこの12ステップという枠組みは、アルコールにとどまらず、薬物やギャンブルなど、さまざまな依存に関わる自助グループへ受け継がれていったと言われます。80年以上ものあいだ、世界のあちこちの集会室で、今夜も誰かがステップ1を読み上げている。そう想像すると、これが机上の理論ではなく、無数の夜をくぐり抜けてきた実践の知恵であることが、じんわりと伝わってきます。

「大きな力」って、何のこと?

ステップ2と3に出てくる「自分を超えた大きな力」は、「ハイヤーパワー」と呼ばれます。やっぱり宗教では?と身構える方もいるでしょう。私も最初はそうでした。

けれどAAでは、ハイヤーパワーは「各自が自分なりに理解したもの」でよい、とされています。特定の教義への同意は求められません。仲間の集まりそのものをハイヤーパワーと考える人もいれば、回復してきた人たちの経験の蓄積、と捉える人もいるそうです。本書はこれを、特定の誰かにすがることではなく、みんなを支える仕組みそのものへの「根拠なき信」と読み解いています。証明はできないけれど、頼ってみる。そういう信頼です。

「根拠なく信じるなんて無理」と感じるでしょうか。本書には、はっとさせられる指摘があります。恵まれた環境にいる人は、常識や知識を無自覚のうちに信頼できているだけなのだ、と。この指摘から私が連想したのは、毎朝の暮らしです。椅子に腰かけるとき、それが壊れないことをいちいち検証しません。電車が時刻どおり来ること、蛇口から安全な水が出ること。誰もが、証明抜きの信頼を空気のように吸って生きています。ただ、その空気を当たり前に持てた人と、人生のどこかで壊されてしまった人がいる。だから回復の旅は、「委ねられる何か」をもういちど意識的に選び直すところから始まるのかもしれません。

この話は、信仰を持つ人だけのものではありません。むしろ「私は何も信じていない」と思っている人ほど、実は膨大な「根拠なき信」に支えられて今日を生きている。そう気づくと、「委ねる」という言葉への警戒心が、少しほどけていく気がします。

考えてみれば、私たちは夜眠るときにも、明日が来ることをいちいち疑いません。手術を受けるときは麻酔科医に、飛行機に乗るときはパイロットに、顔も知らないまま体を預けています。「委ねる」は特別な人の特別な行為ではなく、暮らしの土台にもともと敷かれているもの——そう思うと、12ステップの「委ねる」も、ゼロから何かを信じ込む話ではなく、すでに誰もが使っている力の向きを変える話なのかもしれません。

ここまでのポイント
・依存症は病気であり、意志の弱さではない
・12ステップは「私はやれる」ではなく「私には無理だ」から始まる
・ハイヤーパワーは各自の理解でよいとされ、特定の教義は求められない
・誰もが実は「根拠なき信」の上で生きている

棚卸しという、長い長い夜

委ねたら、それで終わり——ではないのが、この旅の深いところです。ステップ4で待っているのは「棚卸し」。お店が在庫をひとつずつ数えるように、自分の過去を、目を逸らさずに洗い出していく作業です。誰を傷つけたか。何から逃げたか。どんな嘘を重ねたか。想像するだけで胸が重くなります。ふだん私たちは、過去のいちばん痛い場所に、そっと布をかけて暮らしていますから。

ここで、本書の核心にふれる議論が出てきます。哲学の歴史をたどると、「意志」とはどうやら、過去を切り離すための装置なのだそうです。「これは私が、いま、ゼロから決めたことだ」と言うとき、そこに至る長い経緯——育ち、環境、疲れ、偶然——は視界の外に置かれます。何もないところから行為が生まれたことにする。それが「意志」という考え方の骨格だというのです。

ちなみにこの「意志」という概念、人類が昔から持っていたわけではなく、古代末期の思想家アウグスティヌスのころに形づくられていった、とされる案外「若い」考え方なのだとか。神が無から世界を創ったように、意志も無から行為を生む——そんなイメージで作られた概念だけれど、実際の人間に「無からの創造」はできません。夜中にスマホへ手が伸びるとき、その背後には疲れも、長年の習慣も、昼間のストレスも、通知の巧みな設計さえも流れ込んでいます。だとすると「意志の力でやめる」という作戦は、そもそも不可能な離れ業を毎晩自分に課していることになる。ステップ1の白旗は敗北宣言ではなく、勝ち目のない作戦からの賢明な撤退と読めるわけです。この「意志」の話は「「私の意志が弱いから」を、いったん疑ってみる」で詳しく書きました。

意志が「過去の遮断」だとしたら、棚卸しはその遮断を解除する作業です。布をかけていた場所に、ひとつずつ灯りをともしていく。一夜では終わらない、長い長い夜の仕事なのだろうと思います。

もちろん、日常を生きる私たちが、いきなり本式の棚卸しをする必要はありません。ただ、「なぜ自分はいつも同じところでつまずくのか」を、責める口調ではなく、事実を数える口調で書き出してみる——それだけでも、布の下の風景は少し違って見えてくるように思います。私も就寝前に数行だけ、その日の「力んでいた場面」をノートに書いてみることがあります。書いた夜は、自分への小言が心なしか静かになる気がします(あくまで私の場合ですが)。

「埋め合わせ」——過去へ橋を架け直す

棚卸しの先、ステップ9には「埋め合わせ」が待っています。過去に傷つけてしまった人のもとへ、できるかぎり実際に出向いて償いをしていく段階です。ただしここには、その人や他の人々を新たに傷つけない限りにおいて、という大切な但し書きがついています。償いたい気持ちすら、相手を再び傷つける形では果たさない——旅にたとえるなら、焼け落ちた橋を、相手の岸を確かめながら一本ずつ架け直していく場面でしょうか。

「委ねる」という言葉だけ聞くと、ふわりとした現実離れした話に聞こえるかもしれません。けれど実際のプログラムは、過去の具体的な出来事と具体的な相手に向き合う、地に足のついた歩みでできています。しかもステップ10では、棚卸しを日々くり返すことが求められます。回復とは一回の決心ではなく、毎日の小さな往復運動なのだ——そう言われているようで、身が引き締まりました。

手放した人のなかに、「責任を取る自分」が現れる

ここからが、私がいちばん心を動かされたところです。

「無力を認めて委ねるなんて、責任放棄では?」——そう感じる方は多いと思います。ところが熊谷さんは、まったく逆のことを言います。12ステップは、委ねるあり方を徹底しているのと同時に、責任を取る主体へと生まれ変わっていくプログラムでもある。棚卸しをしていくと人は自然に変わっていき、その先に「責任を取ろうとする自分」がおのずと現れてくる——そういう趣旨の読み解きです。

順番が、常識と逆さまなのです。「責任感を持て、しっかりしろ、だから変われ」ではなく、「手放して、振り返っていたら、いつのまにか責任を取れる自分になっていた」。國分さんも、詫びる気持ちは意志で作り出すものではなく、自分という「場所」に生じてくるものだ、という趣旨のことを述べています。心からの「ごめんなさい」は、絞り出すものではなく、あるとき胸に満ちてくるもの。強要された謝罪がどこか空しいのは、この順序を無視しているからかもしれません。

熊谷さんが関わってきた当事者研究の世界には、一度「免責」することによって、最終的にきちんと「引責」できるようになる、という考え方があるそうです。「お前のせいだ」と犯人探しをされているあいだ、人は防御で精いっぱいで、過去を見つめる余裕がありません。まず「意志の弱さのせいではない」と荷を降ろしてもらえたとき、初めて安心して過去に向き合え、その先で本当の意味で責任を引き受けられる。免責は責任の反対語ではなく、責任への入り口だった、というわけです。

家庭でも職場でも、思い当たる場面はないでしょうか。責め立てられた側は、謝罪の言葉を並べても心はシャッターを閉ざしたまま。逆に「事情があったんだね」と一度受け止めてもらえた人が、後日、誰に言われるでもなく深く詫びてくる。責任は追及で搾り出されるものではなく、安心の土壌にしか育たないもの——そんな見方が、ここには流れているように思います。

この免責と引責の順序は、子育てにも通じるように思います。テストの点をきっかけに叱り続けても、子どもは言い訳の名人になるばかり。けれど「点数はさておき、今回は難しかったね」と一度受け止めると、しばらくして自分から「次はここをやり直す」と言い出したりする。安心が先、責任が後。人が変わるときの順番は、大人も子どもも、あまり変わらないのかもしれません。

🌿 本書が描く回復の道すじ(私なりの整理)
無力を認める(勝ち目のない作戦からの撤退)
↓ 一度、免責される(責められる恐怖からの解放)
↓ 棚卸し(遮断していた過去とつなぎ直す)
↓ 詫びる気持ち・応えたい気持ちが生じてくる
↓ 引責(埋め合わせへ。応答できる人になる)

中動態は「した/させられた」を曖昧にする責任逃れの理屈では、という心配に対しても、熊谷さんは、それは誤読であって、むしろ意志と責任のほうが対立するのではないか、とまで応じています。意志が過去の切断なら、過去との接続を回復する棚卸しこそが、責任の前提条件になる。委ねることの先にしか、本当の責任はない——何度読んでも、目の覚めるような議論でした。

「明け渡し」は、あきらめとは違う

私はこの一連の知恵を、「明け渡し」という言葉で覚えておきたいと思っています。あきらめでも投げやりでもなく、「自分ひとりの支配」という重すぎる王座から降りて、もっと大きな流れに自分を開くこと。似た言葉のようで、手ざわりはずいぶん違います。

  • あきらめは、扉を閉めること。「どうせ無理」と、未来ごと手放してしまう。
  • 明け渡しは、扉を開けること。「私の力では無理。だから、私より大きなものに任せる部分をつくる」。未来は手放さない。

庭仕事にたとえるなら、種を土に埋めたあと、芽を出させるのは私たちの仕事ではありません。水をやり、草を抜く。そこまでが人の持ち分で、あとは土と光に明け渡す。育児も、老いていく親のことも、自分の体調も、案外この構造をしているのではないでしょうか。「コントロールを手放すと、なぜ心が軽くなるのか」という記事でも書きましたが、12ステップは、その手放しを回復の道すじとして体系にした、古くて新しい知恵なのだと思います。

40代は、明け渡しの練習問題が次々にやってくる年代です。子どもの進路は、もう親の意志ではどうにもなりません。親の老いも、自分の体の変化も。そのひとつひとつの前で、「支配」から「手入れ」へ、握りしめた手をひらいていく。それは負けていくことではなく、人としての重心が少し深くなることなのではないか——この頃の私は、そんなふうに感じています。

仕事でも同じことを感じます。かつての私は、後輩の仕事ぶりが気になって、つい細かく口を出していました。けれど口を出すほど相手は萎縮し、結果として仕事は遅くなる。思いきって「ここから先はあなたに任せる」と手を放したとき、相手が自分より良い方法を見つけてくることが何度もありました。任せることは手抜きではなく、相手の力が育つ余白をつくること。「支配」から「手入れ」への転換は、家庭だけでなく職場の風景も変えていくようです。

🌸 小さな「明け渡し」の練習
・「今日じゅうに解決しなくていいこと」をひとつ、明日の自分に預けてみる
・眠れない夜は「眠らなきゃ」ではなく「横になれているだけで十分」と言い換えてみる
・棚卸しをひとりでしない。ノートに書くだけでなく、信頼できる誰かに聴いてもらう
どれも小さなことですが、「全部を自分で背負わない」感覚の入り口になるかもしれません。

この知恵は、ひとりでは生きられない

ただし、この本は甘い夢を売りません。委ねるあり方(中動態)はそれ自体が救いなのではなく、ひとりで生き続けるにはむしろしんどいものだ、と釘を刺します。だから、仲間が要る。12ステップの最後が「同じ苦しみのなかにいる誰かに伝える」で締めくくられているのは、偶然ではないのでしょう。棚卸しも埋め合わせも、聞いてくれる誰かがいて初めて続けられる。手放したものを受け止めてくれる場所があってこそ、人は安心して手放せるのだと思います。

責任(responsibility)という言葉の芯には応答(response)がある、というのも、この本が教えてくれた見方でした。責任とは、命令に従うことでも罰を引き受けることでもなく、目の前の相手に、自分なりの仕方で応えること。応答には、応える相手が必要です。つまりこの知恵は、はじめから複数形でできているのです。

AAのミーティングには「言いっぱなし、聞きっぱなし」と呼ばれる作法があるそうです。誰かの話に助言も批評もせず、ただ聞く。議論で正解を出す場ではなく、安心して手放せる場をみんなで守るための仕組みなのだと思います。これは家庭の食卓でも応用できそうです。家族の愚痴に、すぐ解決策を返さずに、まず最後まで聞いてみる。それだけで、相手の「なんとかしなければ」が少しゆるむことがあります。聞くことは、誰にでも今日からできる、いちばん小さな支え合いなのかもしれません。

もしいま、お酒や薬物、ギャンブルなどのことで苦しさを抱えている方がいらしたら、それは意志の問題ではありません。冒頭でご紹介した医療機関・精神保健福祉センター・自助グループという扉を、どうか思い出してください。そこまでではないけれど、日々のもやもやを誰かに話したい——そんな段階の心には、こんな場所もあります。

🕊 この話の、続きに。
「誰かに話を聴いてほしい」と感じたら――オンラインカウンセリングって実際どうなの?|料金・流れ・向き不向きを40代目線で整理する

おわりに——白旗は、降参の印ではなく

冒頭の、夜の台所に戻ります。

「また今日もできなかった」とうなだれるとき、私たちは無意識のうちに、意志という若い概念の法廷で自分を裁いているのかもしれません。判事も検事も被告も、ぜんぶ自分。そんな法廷が深夜の台所に開かれて、無罪になった夜は、少なくとも私には一度もありません。でも12ステップの旅人たちは、別の道を歩いてみせてくれました。白旗を揚げる。大きな力に体重を預ける。長い夜をかけて過去に灯りをともし、橋を架け直す。そして気づけば、責任を取れる自分が、贈り物のように立ち上がっている——。

もちろん、これは魔法の処方箋ではありませんし、誰にでも同じように効くと約束できるものでもありません。それでも、「認めることから始まる」という逆説は、依存症という文脈を超えて、頑張り疲れた40代の胸に届く何かを持っているように、私は思うのです。

最後にもう一度だけ、線を引き直しておきます。この記事で扱ったのは、あくまで本を通して学んだ「考え方の順序」です。実際の依存症からの回復は、専門家の支えと仲間の存在があって進んでいくものであり、読書や自己流の工夫で置き換えられるものではありません。もしこの記事が、誰かが相談窓口の扉を叩く小さな後押しになったなら、それがいちばんうれしいことです。

今夜どうにもならないものを抱えている方が、「なんとかしなければ」の手を、ほんの少しだけゆるめられますように。白旗は敗北の印ではなく、旅の出発の合図なのかもしれません。

参考文献
國分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』新曜社
※本記事は同書(特に第四章)の議論の一部を、筆者の理解でかみくだき、ブログ用に大きく単純化してご紹介したものです。関心を持たれた方は、ぜひ原著をお読みください。依存症の治療については、必ず医療機関・専門機関にご相談ください。

関連記事

スポンサー

🛍 【PR】ひとりで抱えきれない夜に|Kimochi(オンラインカウンセリング)

「自分の力ではどうにもならない」と感じたとき。国家資格を持つプロに、そっと話してみる選択肢もあります。

Kimochi オンラインカウンセリング

次に読む

心の整理の仕方|「名づける→ゆるめる→手放す→委ねる」の4ステップ

名づける→ゆるめる→手放す→委ねる。全体の地図はこちらです。

テーマ:#心理 #教養

ABOUT ME
グレイス
考察好きなブロガー。日々の心の重荷を、心理・思想・歴史・暮らしの知恵から静かにほどく——そんな長文の読み物を「日常の温もり」で綴っています。