ナウエン『傷ついた癒し人』の読みどころ|孤独という傷・もてなし・待つことを、介護と職場の例で考える
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親の介護、思春期の子ども、職場の後輩、相談を持ちかけてくる友人。40代になると、気づけば「支える側」に立っている場面が増えます。けれど支える側の自分も、疲れていて、傷ついていて、ときには相手より余裕がない。そんな状態で人の力になれるのだろうか、と思ったことはないでしょうか。
ヘンリ・ナウエンの『傷ついた癒し人』は、この問いに正面から答えた本です。結論を先に言えば、「無傷の人が人を癒すのではない。自分の傷を丁寧に手当てしている人こそが、他者の傷に触れられる」。1972年に書かれた薄い本ですが、看護や介護、教育、宗教といった対人援助の現場で半世紀にわたって読み継がれてきました。
本記事では、原著の章立てをそのままなぞるのではなく、「傷とは何か」「傷をどう扱うか」「人はなぜ明日を迎えられるのか」という三つの問いに組み替えて読み解きます。説明は筆者の言葉で書き、例は現代の家庭や職場の場面に置き換えてあります。本文中のページ番号は、日本キリスト教団出版局版(西垣二一・岸本和世訳、1981年初版)のものです。
この記事の早わかり
- 支える人は「無傷」でなくていい。自分の傷を一つずつ手当てしながら、呼ばれたときに動ける状態でいることが条件(p.115–116)
- 現代人に共通する傷は「孤独」。見せびらかさず、隠さず、相手を迎え入れる「もてなし」の場に変える(p.117、p.124–132)
- 人は、自分を待っていてくれる人がひとりでもいれば明日に向かえる。支える人の仕事は、助言より「待つこと」(第3章)
こんな人に:介護や子育て、部下の相談で「支える側」に疲れている人/看護・教育・福祉・宗教などの対人援助職の人/自分の弱さを隠して人に接してきたと感じる人
この本はどんな本か――司祭であり心理学者だった著者
著者のヘンリ・J・M・ナウエン(1932–1996)はオランダ生まれのカトリック司祭です。1957年に司祭に叙階されたのち心理学を学び、アメリカのカンザス州トピカにあるメニンガー研究所で牧会心理学を研究しました。牧会(ぼっかい)とは、教会で人々の悩みや魂に寄り添う働きのことで、その働きを担う牧師や司祭を「牧会者」と呼びます。牧会心理学は、その働きを臨床心理学の知見で支えようとする分野です。ナウエンはその後ノートルダム大学、イェール大学、ハーバード大学で教え、晩年はカナダ・トロント近郊の共同体「ラルシュ・デイブレイク」で、知的障害のある人たちと生活をともにしました。
原著『The Wounded Healer』は1972年の刊行で、副題は「現代社会におけるミニストリー」。ミニストリーとは英語で「奉仕」「務め」を意味し、ここでは人に仕える働き全般を指します。邦訳は1981年に西垣二一・岸本和世訳で出版され、巻末には別著『生きた想起者』の訳も収められました。2022年12月には渡辺順子訳の新訳『傷ついた癒やし人』が同じ出版社から出ています。
本書は、読者として想定しているのが牧師や司祭であるという点で、一般の心理学書とは少し違います。けれど論じられているのは、「苦しむ人のそばに立つ人間は、何を頼りに立っていればよいのか」という、職業を問わない問題です。だから本書は、カウンセラー、看護師、教師、介護者、そして家庭や職場で相談役になっている人たちに広く読まれてきました。
構成は四章立てで、レンズが少しずつ狭まっていきます。第1章は「核時代の人間」として世界全体を、第2章は「根なし世代」として若い世代を、第3章は手術を前にした一人の男性を、そして第4章は支える人自身を扱います。本記事の中心は第4章と第3章ですが、第1・2章の時代診断も後半で取り上げます。
序文には、ナウエンのもとへ助けを求めてやって来た一人の若者のことが短く記されています。彼は助けを求めに来たのに、同時にナウエンに、自分が生きている世界についての新しい理解をもたらした(p.16)。助けを求める人が、助ける人に何かを与える。本書の主張の種は、この短い逸話にすでに蒔かれています。
「傷ついた癒し人」とは何か――タルムードの伝承から
表題の言葉は、ユダヤ教の聖典タルムードに伝わる話から取られています(p.115–116)。骨子だけ記すと、こうです。ある師が「メシア(救い主)はどこにいるのか」と尋ねると、町の門のところで貧しい人や病んだ人に混じって座っていると告げられます。どうやって見分ければよいのか。ほかの人たちは自分の傷の包帯をいっぺんに全部ほどいて、巻き直している。けれどその人だけは、包帯を一つほどいては巻き、また一つほどいては巻く。自分が必要とされる瞬間が来たとき、すぐに立ち上がれるように。
ナウエンはここから、人の傷に関わる者の姿勢を読み取ります。呼ばれる時に備えて、自分の傷は注意深く、一つずつ包んでおかなければならない。そのような人を彼は「傷ついた癒し人」と呼びました(p.116)。
この短い伝承には、支える側にとって三つの含みがあります。
第一に、癒す人も傷を負っている、という前提です。伝承のメシアは無傷ではなく、同じ門のところで同じように傷を抱えています。支える資格は「もう乗り越えた人」にだけあるのではない。
第二に、手当てを怠ると、呼ばれたときに動けない、ということです。自分の傷を放置したまま人に関わり続ければ、いざというときに立てないか、相手の傷に自分の傷を混ぜてしまう。
第三に、「一度に全部ほどかない」という知恵です。たとえば平日は介護と仕事で走り続け、休日に「全部リセットしよう」と寝込んで、翌週にはまた同じ疲れを抱える、という人がいます。全部をいっぺんにほどく手当ては、かえって回復を遅らせる。毎日少しずつ、一か所ずつ手当てするほうが、必要なときに動ける状態を保てる。伝承からは、そう読み取れます。
私たちの傷の正体は「孤独」である
では、支える側が手当てすべき「傷」とは何なのでしょうか。ナウエンは、現代人の傷ついた状態を表す言葉として「疎外」「離別」「孤立」「孤独」を挙げ(p.117)、なかでも孤独を中心に論じます。
彼のいう孤独は二層になっています。一つは人格的な孤独。どれほど親しい関係があっても消えない、人間であることに根ざした一人ぼっちの感覚です。もう一つは職業的な孤独(p.120)で、こちらは支える役割を担う人に特有のものです。ナウエンが念頭に置いていたのは、1970年代のアメリカで社会的な影響力を失いつつあった聖職者でした。自分の役割が世間から軽く見られていくと知りながら、それでも人のそばに立ち続けなければならない。その痛みが、人格的な孤独の上に重なります。
この構図は、今の日本の支える側にもそのまま当てはまります。たとえば、専門家の言葉より匿名の口コミが信じられる時代に働く看護師や教師、ケアマネジャー。「お母さんなんだから」「上司なんだから」という期待だけが残り、感謝も評価も伴わない家庭や職場の中間管理職。役割の重さと役割の軽視が同時にのしかかるとき、支える側の孤独は二重になります。
ナウエンの観察で鋭いのは、この傷が深いにもかかわらず、私たちが気を散らすものに囲まれているせいで、その存在を忘れている、という指摘です(p.122)。1972年の時点でそう書いたのですから、スマートフォンと動画配信とSNSに囲まれた現在は言うまでもありません。疲れた夜にスマホを眺めて眠るとき、私たちは傷を手当てしているのではなく、傷から目をそらしているだけかもしれない。しかも彼は、自分たちは傷が以前よりずっと見えやすくなった時代に生きている、とも言います(p.134)。隠しきれなくなった傷を、どう扱うか。問いはそこに移ります。
そして彼は、支える人は他の人以上の配慮と注意をもってこの傷を包むよう「召されている」と言います(p.123)。召されているとは、キリスト教で神から役割を与えられていることを指す言葉ですが、ここでは「それがあなたの仕事の一部だ」と読み替えてよいでしょう。自分の孤独に向き合うことは、支える人にとって私的な趣味ではなく、仕事の一部なのです。
傷をどう扱うか――見せびらかさず、隠さず、「もてなす」
「霊的露出症」という失敗
自分の傷を認めることが大切だと聞くと、「では相手に自分の弱さを打ち明ければいいのか」と考えたくなります。ナウエンはここに釘を刺し、傷をむき出しにして見せる態度を「霊的露出症」と呼んで退けます(p.124)。むき出しの傷は人を癒さない。それどころか相手を遠ざける、というのが彼の判断です。
たとえば、部下から仕事の悩みを相談された上司が、「自分のころはもっと大変だった」と苦労話を始めてしまう。あるいは、落ち込んでいる友人を励まそうとして、自分の失敗談を長々と語る。相手のための時間のはずが、気づけば自分が聞いてもらう側に回っている。SNSで「弱さを見せる」ことが推奨される現在、この取り違えは起こりやすくなっています。
ナウエンが言う「傷を分かち合う」は、表面的な個人的苦労を打ち明けることではありません。自分の痛みが、すべての人が分け持っている人間の条件の深みから来ていると見る姿勢のことです(p.124–125)。「私もつらい」ではなく、「つらさは人間に共通のものだ」という場所から相手に向き合う。この違いが、露出と分かち合いを分けます。
かといって隠すのも違う
反対に、傷を完全に隠して「できる人」「大丈夫な人」として振る舞い続ける道もあります。けれど本書の立場では、これは二重に危うい。相手との間に見えない壁を作ることになり、しかも手当てされない傷はいつか支える側自身を倒します。近年「燃え尽き」と呼ばれる状態の一因も、ここにあるように思います。
第三の道は「もてなし」
見せびらかしでも隠匿でもない第三の道として、ナウエンが示すのが「もてなし」です(p.125–132)。もてなしといっても料理や接待のことではなく、自分の中に相手が入ってこられる空間を用意すること。彼はこれを二つの要素に分けます。
一つめは集中です(p.126–128)。ここでナウエンは、ユダヤ教神秘主義カバラの「ツィムツーム」という考え方を引きます(p.128)。神が世界を創るために、あえて自分自身を縮めて場所を空けた、という教えです。支える人も同じで、自分の関心や焦りや「役に立ちたい」という欲求を少し引っ込めて、相手のための場所を空ける。たとえば相談を聞くときにスマホを伏せる、解決策を言いたくなる衝動をいったん保留する、沈黙を急いで埋めない。こうした小さな撤退が、相手が自分の言葉で語り出す空間になります。
「場所を空ける」を別の角度から考えた記事:「でも、感謝してます」と言う前に──削られた言葉のための場所
興味深いのは、自分の孤独を知っている人ほど、この撤退ができるという点です。孤独に向き合ったことがない人は、空いた場所を自分の不安や承認欲求で埋めてしまう。「必要とされたい」という気持ちが前に出ると、相手の場所がなくなるのです。
二つめは共同体です(p.129–132)。支える人は一人で癒すのではありません。本当のもてなしのある場に入った人は、自分の傷を絶望や憎しみの源としてではなく、まだ旅を続けなければならないことの徴(しるし)として理解するようになる(p.130)。苦しみを、人間の条件に組み込まれた傷として受け止めたときにだけ、人はそれを創造的に扱える(p.131)。そしてナウエンは、癒しの共同体とは傷が消え痛みが和らぐ場所ではなく、傷や痛みが新しいものの見え方の生まれる場所になるところだ、と定義します(p.132)。
この定義は、介護者の家族会や、同じ病気を持つ人の患者会、子育てサークル、職場のピアサポートが、なぜ「解決策が出なくても」人を回復させるのかを説明してくれます。痛みがなくなるわけではない。けれど痛みを持ったままで見える景色が変わる。それが癒しだ、と本書は言います。
傷に急いで意味を与えないことについて、研究を整理した記事:つらい経験に意味を見つけられないとき|意味づけを急がないための研究整理
もう一点、見落とされがちな指摘があります。もてなしは甘やかしではなく、相手に傷と向き合うことを求める「対決的」な働きでもある、という点です(p.131)。「大変だったね」で終わらせるのではなく、「それで、あなたはどうしたい?」と問う。迎え入れることと、問いかけることは、本書では一つのことです。
人はなぜ明日を迎えられるのか――「待っている人」の力
第3章は、四章のなかで最も具体的です。手術を控えた中年男性の病室を、訓練中の病院付き牧師が訪ねたときの会話記録を素材に、支える側がどこでつまずき、何ができたはずかを一行ずつ検討していきます。本記事では会話の内容には立ち入りませんが、そこから引き出される洞察は、支える側すべてに関わるものです。
その男性には、手術の向こう側で自分を待っている人が誰もいませんでした。ナウエンがこの事例から取り出す考えを一言でまとめれば、人は自分を待っている人がひとりでもいるかぎり、明日に向かって踏み出せる、ということです。逆に言えば、誰にも待たれていないと感じた人は、治療や回復に自分を投じる理由を失います。
ここから支える人の二つの務めが導かれます。一つは、相手に人格的な関心を向けること。ナウエンは福音書の「失われた一匹の羊」のたとえを引き(p.106)、九十九匹を残して一匹を探しに行く羊飼いの姿に、この一人が自分にとってかけがえのない存在だと伝える態度を見ています。もう一つは、支える人自身が明日に価値があると信じていることです。自分が明日を信じていない人は、相手に明日を手渡せない。
この洞察は、言葉にすると当たり前のようで、実行は難しいものです。たとえば、受験を控えた子どもに「頑張って」と言うのと、「終わったら話を聞かせてね」と言うのとでは、何が違うでしょうか。前者は相手を一人で送り出し、後者は相手の明日に自分を結びつけています。手術を控えた親に「退院したら一緒に出かけよう」と言う。休職中の同僚に「席はそのままにしてある」と伝える。待つという行為は、相手の未来に賭けることであり、本書によれば、それ自体が人を生かす働きです。
支える側が疲れているとき、私たちは助言を増やしがちです。けれど本書が示す順番は逆で、まず「待っている」と伝え、それから一緒に考える。助言は、待つ姿勢の上に乗って初めて届きます。
1972年の時代診断は今も有効か――「核時代」と「根なし世代」
ここで第1・2章に戻ります。半世紀前の時代診断ですが、構図が驚くほど現在と重なるからです。
核時代の人間(第1章、p.23–35)
ナウエンは、核兵器によって人類が一瞬で消えうる世界に育った人間を「核時代の人間」と呼び、その特徴を描きます。過去と未来のつながりが実感できないこと、一つのまとまった世界観を持てず断片的な考えをつぎはぎしていること、そして死を超える何かを新しい形で探していること。彼はこの人間が陥りやすい状態として無気力を挙げ(p.29)、「どうせ変わらない」という感覚が自分を守る鎧になっていると見ます。
出口として二つの道が検討されます。内面へ向かう神秘の道と、社会を変える革命の道です。ナウエンはどちらか一方ではなく、内面の変容と社会の変革を切り離さない第三の道を「新しい小道」として示し(p.33)、希望を未来への責任として引き受けることを求めます(p.24)。
核の脅威を、気候変動やパンデミック、急速な技術変化に置き換えてみてください。「未来が続いている実感が薄い」「どうせ変わらない」という感覚は、2020年代の私たちが日々口にしているものです。ナウエンの処方は、瞑想やセルフケアに閉じこもることでも、怒りに任せて声を上げ続けることでもなく、その両方を一人の人間の中でつなぐことでした。
根なし世代(第2章、p.42–63)
第2章は一つの物語で始まります(p.42)。骨子だけ記すと、ある村が一人の脱走兵をかくまい、追っ手から「引き渡さなければ村を焼く」と迫られる。村の指導者は一晩中聖典を調べ、多数のために一人を差し出すことを正当化する箇所を見つけて、兵を引き渡す。村は救われ、人々は祝う。しかしその夜、指導者は告げられます。あの男こそ待ち望んでいた救い主だった、一度でも彼の目を見に行っていれば、それが分かったはずだ、と。
書物や規則を頼りに決断し、目の前の人の目を見なかった。この物語は、支える人が最も陥りやすい失敗を描いています。マニュアル通りの対応、前例に従った判断、「規定ですので」の一言。正しさの手続きを踏んでいても、一人の人を見ていなければ、取り返しのつかないものを差し出してしまうことがある。
続けてナウエンは、これからの世代の特徴を三つ挙げます。彼らを「孤独な群衆の子供たち」と呼び(p.44)、この呼び名は社会学者デイヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』を踏まえたものですが、その特徴として、内へ向かう傾向(p.46)、権威としての「父親の世界」が信頼を失っていること(p.50)、そして持続しない発作的な行動を指摘します。ドイツの社会学者シェルスキーの世代論も参照されます(p.47)。
これを現在に重ねると、自己啓発やマインドフルネスの流行は内向きの傾向に、専門家や制度への不信は父親の世界の失墜に、SNSで燃え上がっては消える抗議や炎上は発作的な行動に対応します。1972年の若者論は、2020年代の大人論としても読めるのです。
明日の指導者に求められる三つの資質(p.58–63)
この世代を導く人に、ナウエンは三つの資質を求めます。第一に、人々の内側で起きていることを言葉にできる人であること。感じているのに名づけられない不安や怒りに言葉を与えると、人はそれを扱えるようになります。第二に、共感をもって苦しみの中に入っていける人であること。第三に、時代の熱狂から一歩引いて物事を見られる、観想的な批判者であること。章の終わりで彼はこれを、混乱の国から希望の国へ人々を導く働きと表現しています(p.63)。
40代は、家庭でも職場でも「明日の指導者」の位置にいます。思春期の子どもの言葉にならない苛立ちに名前を与える。部下の失敗に、まず共感をもって近づく。流行や炎上に乗らず、半歩引いて見る。本書の指導者論は、肩書きのある人のためではなく、誰かの前を歩くことになったすべての人のためのものです。
40代の「支える側」が明日からできる三つのこと
本書は方法論の本ではありませんが、ここまでの内容から、実践に移せることを三つにまとめます。
1. 傷の手当てを予定表に入れる
タルムードの伝承が示したように、手当ては「一度に全部」ではなく「一つずつ、継続的に」が原則です。週に一度、誰かに自分の話を聞いてもらう時間を作る。十五分でよいので、感じていることを紙に書く。カウンセリングや信頼できる友人との定期的な対話を、贅沢ではなく仕事の一部として予定に組み込む。支える役割が長期にわたる人ほど、この習慣が「呼ばれたときに動ける状態」を保ちます。なお、眠れない、食欲がない、涙が止まらないといった状態が二週間以上続くときは、本より先に医療機関や自治体の相談窓口を頼ってください。
2. 「待っている」を言葉にする
第3章の洞察を、そのまま日常に持ち込みます。励ますより先に、「待っている」と伝える。試験でも手術でも転職活動でも、相手が一人で向かわなければならない場面の前に、「終わったら聞かせてね」の一言を置く。これは相手の明日に自分を結びつける行為であり、本書によれば人を生かす働きそのものです。
3. 助言より先に、場所を空ける
もてなしの二つの要素を思い出してください。集中とは、自分の焦りや「役に立ちたい」気持ちを少し引っ込めて、相手が語れる空間を作ること。スマホを伏せる、沈黙を埋めない、解決策を保留する。共同体とは、一人で抱え込まず、同じ立場の人の集まりに自分も相手もつなぐこと。家族会や患者会、職場のピアサポートは、「痛みが消えなくても見える景色が変わる」場所として機能します。
そして一つの注意点。自分の傷を相手に語るのは、それが相手の役に立つときだけ、しかも短く。語ったあとに会話の主役が自分になっていたら、それは分かち合いではなく露出です(p.124)。
ナウエンの考えを手がかりに、等身大の自分と和解する道を考えた記事:背伸びをやめる勇気──40代から始める「自分のサイズ」との和解
読む前に知っておきたいこと――版の違いと読み方
二つの邦訳
現在、日本語で読める版は二つあります。一つは本記事が参照した西垣二一・岸本和世訳(日本キリスト教団出版局、1981年初版)。221ページで、巻末に別著『生きた想起者』の訳が付録として収められています。もう一つは2022年12月に出た渡辺順子訳の新訳『傷ついた癒やし人』(同社、163ページ、酒井陽介氏の解説付き)。表記が現代的で、解説が読みの手引きになります。本文中のページ番号は旧訳のものなので、新訳で該当箇所を探す場合は章の位置を目安にしてください。
付録『生きた想起者』について
旧訳に収められた『生きた想起者』は、支える人を、人々に本当に大切なことを思い出させる「生きた想起者」として描いた小著です。癒す想起者、支持する想起者、導く想起者という三つの働きに分けて論じられており、本編の第4章を別の角度から補います。短いので、本編を読み終えたあとに続けて読むのに向いています。
キリスト教の言葉をどう読むか
本書は牧会者に向けて書かれているため、召命、ミニストリー、キリスト者といった言葉が前提なしに使われます。キリスト教徒でない読者は、「牧師」を「支える人」に、「召されている」を「それがあなたの務めだ」に置き換えて読み進めて差し支えありません。ただし、ナウエンにとって支える人の希望の根拠は最終的に神への信頼にあり、著者はそれを隠しません。その土台ごと読むか、構造だけを借りるかは読者に委ねられていますが、土台を知った上で借りるほうが、本書の射程は正確に見えてきます。本書は最後に、傷を抱えたままで前へ進むようにという短い結びで終わります(p.136–137)。
同じ「弱さとともに生きる」主題を小説で読む:遠藤周作『沈黙』を考察|踏絵の前で神は本当に黙っていたのか、三つの読みどころ
読む時間の目安
本編は短く、集中すれば二、三時間で読み通せます。ただ、第3章の会話記録と第4章は、一度読んだあとに自分の現場を思い浮かべながら読み返すことで、初めて働き出す部分です。通読一回と、気になる章の再読を一回、という読み方を勧めます。
📚 ヘンリ・ナウエン『傷ついた癒やし人』(新訳・日本キリスト教団出版局)
渡辺順子訳・酒井陽介解説、168ページ。この記事で骨子だけ記したタルムードの伝承と、第3章の会話記録は、記事の説明では伝わらない密度があります。本記事のページ番号で該当箇所を追いたい人や、付録『生きた想起者』まで読みたい人は、西垣二一・岸本和世訳の旧版(221ページ)を。
楽天ブックスでの価格は新訳が1,980円、旧版が2,200円(いずれも税込。2026年10月13日確認。在庫や価格は変わることがあります)。
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よくある質問
Q1. キリスト教徒でなくても読めますか?
読めます。本書の核心は「支える人は自分の傷を手当てしながら、相手のための場所を空け、待つ」という構造で、特定の信仰がなくても成り立ちます。ただしナウエンの希望の根拠は神への信頼にあるので、その前提を知った上で読むと、どこまでが構造でどこからが信仰かを見分けられます。
Q2. 「傷ついた癒し人」はナウエンの造語ですか?
いいえ。心理学では、ユングが語った「傷ついた医師」の考えに由来し、のちにギリシャ神話のケンタウロスの賢者ケイロンの像と結びつけて語られてきた概念として知られます。ナウエンはユダヤ教のタルムードの伝承からこの言葉を語り直し、対人援助の文脈に広めた代表的な一人です(p.115–116)。
Q3. 新訳と旧訳、どちらを選べばよいですか?
初めて読むなら、解説付きで表記の新しい新訳(渡辺順子訳、2022年)が入りやすいでしょう。付録『生きた想起者』まで読みたい人や、本記事のページ番号で該当箇所を確認したい人は旧訳(西垣二一・岸本和世訳)を。価格はどちらも2,000円前後です(2026年10月13日時点の楽天ブックスの表示)。
Q4. 介護や子育てで疲れ切っています。読む余力がない人にも役立ちますか?
本書が最初に求めるのは「あなた自身の傷を手当てすること」です。全部を一度に解決しようとせず、一か所ずつ、短時間でもよいので手当てを続ける。その順番を肯定してくれる本なので、疲れている人ほど第4章の前半(p.114–124)だけでも読む価値があります。
Q5. 本書のいう「孤独」は悪いものですか?
取り除くべき欠陥としては扱われていません。人間に共通する条件として受け止め、丁寧に扱うことで、他者と出会う接点や、新しいものの見え方が生まれる場所になりうる、というのが本書の立場です(p.130–132)。
Q6. どんな人に向いていますか?
看護・介護・教育・福祉・宗教などの対人援助の現場にいる人、家庭や職場で相談を受ける立場の人、そして「自分の弱さを隠して人に接してきた」と感じている人。方法論ではなく姿勢を問う本なので、具体的な技法を求める人には別の本のほうが合います。
まとめ
『傷ついた癒し人』が語っているのは、支える人の資格についての、静かな、しかし徹底した転換です。無傷であること、強くあること、答えを持っていることは条件ではない。条件は、自分の傷を知り、一つずつ手当てし、呼ばれたときに立てる状態でいること。そして相手のために自分を少し縮め、場所を空け、待つこと。
40代の私たちは、親にも子にも、職場の若い人にも、「支える側」として呼ばれています。疲れているのに呼ばれるから、この本が要るのです。傷を手当てしながら立っている人のそばでなら、人は自分の傷を見つめ直せる。半世紀前にそう書いた著者の言葉は、今も、支える側の背中を静かに押してくれます。
――グレイス
参考文献
- H・J・M・ナウエン『傷ついた癒し人――苦悩する現代社会と牧会者』西垣二一・岸本和世訳、日本キリスト教団出版局、1981年初版(本文中のページ番号はこの版による)
- ヘンリ・ナウエン『傷ついた癒やし人』渡辺順子訳、酒井陽介解説、日本キリスト教団出版局、2022年
- Henri J. M. Nouwen, The Wounded Healer: Ministry in Contemporary Society, Doubleday, 1972
本記事の説明は著者の議論を筆者の言葉で整理し直したもので、例はすべて筆者が現代の家庭や職場の場面に置き換えて作成したものです。書籍の価格・在庫は2026年10月13日時点の楽天ブックスの表示にもとづきます。
テーマ:#深く考える