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早わかり

  • 人の目が気になるとき、実際に気にしているのは目の前の人ではないことが多いものです
  • 社会学者ゴフマンは、人は「目に見えないオーディエンス」を想定し、誰も見ていない場所でも基準を守ろうとすると書いています(『日常生活における自己呈示』p.136)
  • その観客は、舞台の客席とは違ってそこにいない人間です(同p.10)
  • 臨床心理士の河村従彦さんは、承認欲求について「無理して手放す必要はありません。自分から手放してはいけません」と書いています(『宗教二世、教会二世』p.193)
  • 目指すのは、気にしなくなることではなく、観客の正体を特定することです

会議で発言したあと、言い方が失礼だったのではないかと何度も再生してしまう。

スーパーで知り合いを見かけて、遠回りする。

送信したメッセージを、既読がつく前に読み返す。

四十代になって、こういうことがむしろ増えたと感じている方に向けて書いています。

この記事は「気にしなくていいですよ」とは言いません。それで解決するなら、とっくに解決しているからです。かわりに、気にしている相手が誰なのかを特定する方向で進めます。

気にしているのは、目の前の人ではない

まず、実際に何が起きているのかを見てみます。

人の目が気になるとき、私たちは特定の誰かの顔を思い浮かべているようで、実はそうでもありません。

見えないオーディエンス

社会学者のアーヴィング・ゴフマンは『日常生活における自己呈示』のなかで、興味深い指摘をしています。

人は、目に見えないオーディエンスがそこにいて、基準から逸脱したら罰を与えるだろうというはっきりした信念を持っていることがある。だから、誰も見ていないところでも、自分では信じていない行動の基準を維持してしまう(p.136)。

ここで注目したいのは、二つあります。

ひとつは、その観客が目に見えないこと。誰と特定できないまま、確かにいると感じている。

もうひとつは、自分では信じていない基準を守っている、という部分です。おかしいと思いながら、従っている。

「自分では信じていない基準」に心当たりはありますか

たとえば、こんなものです。

  • 四十代の女性は、こういう服を着るべきではない
  • 母親なら、これくらいはやって当然
  • この歳で転職を考えるなんて、甘い
  • 親の介護は、娘がやるもの

口に出して言われたら、たぶん反論できます。おかしいと思うからです。

それでも、その基準に沿って行動を選んでいる。ゴフマンが言っているのは、この状態です。

その観客は、客席にいない

ゴフマンはもうひとつ、決定的なことを書いています。

舞台のパフォーマンスであれば、オーディエンスは重要な存在ですが、そこにはいない人間である。実際の生活では、三つの種類の当事者が二つに圧縮される(p.10)。

回りくどい言い方ですが、実感に引き寄せるとこうなります。

私たちが気にしている「みんな」は、集合として実在しません。会議で発言したあと恥ずかしくなるとき、実際に評価を下した人がいるわけではない。自分の中に置いた観客席に向かって、自分で恥じている

だから、誰かに「大丈夫だったよ」と言われても収まりません。その人は観客席にいないからです。

40代で、人の目は別のものに変わる

二十代のころにも人の目は気になりました。ただ、中身が違います。

評価される場所が、減っていく

若いころは、評価される機会が多くありました。それは苦しいと同時に、自分の位置を教えてくれるものでもあります。

四十代になると、面と向かって評価されることが減ります。上司からのフィードバックも、親からの小言も、少なくなる。

すると、情報が入ってこないぶんを、想像で埋めることになります。想像は、たいてい悪いほうに寄ります。

人の目が気になるのは、見られているからではなく、見られた結果が返ってこないからかもしれません。

見られていないことのほうが、こたえる

正直に言えば、四十代で本当にこたえるのは、悪く見られることより、誰も見ていないことだったりします。

職場で若手に話が回らなくなる。集まりで話題の中心から外れる。誰も悪気はない。ただ、視線が来なくなる。

このとき、人の目が気になるという言い方の中身は、実は「まだこちらを見てほしい」です。

気にしすぎだと自分を責める前に、そちらの可能性も見ておいていいと思います。

子どもの目が、鋭くなる

子どもがいる場合、思春期にさしかかると、視線の質が変わります。

それまで無条件だった目が、評価する目になる。服装、話し方、友達づきあい。指摘は短く、正確で、痛い。

これがこたえるのは、逃げ場がないからです。職場の評価は家に持ち帰らなければ済みますが、家庭内の視線には帰る場所がありません。

同世代の目が「答え合わせ」になる

四十代の同窓会が独特なのは、それが答え合わせの場になるからです。

二十代なら「これから」で済みます。四十代は、ある程度の結果が出ている。だから、人を見ることが自分の採点になる。

ここで気になっているのは相手の目ではなく、自分がつけている自分への点数です。

承認欲求は、手放してはいけない

ここで、少し意外な話をします。

人の目が気になる、承認欲求が強い——こう自己診断すると、次に来るのはたいてい「それを手放そう」という発想です。

けれど臨床の側は、かなり違うことを言っています。

「〜してほしかった」という層

臨床心理士の河村従彦さんは『宗教二世、教会二世——自分を取り戻すための心理カウンセリング』のなかで、感情を層で捉えます。

怒りや悲しみといった感情のさらに深いところに、承認欲求がある。その中身は、〜してほしかった、認めてほしかった、褒めてほしかったという言葉です(p.192)。

過去形であることに注目してください。

今の職場や今の家族に向けられているようで、実際には、ずっと前に受け取れなかったものを求めている場合があります。だから、今どれだけ褒められても届きません。宛先が違うからです。

「無理して手放す必要はありません」

そして河村さんは、対応をこう書いています。

承認欲求をそのまま尊重する。承認欲求を感じている自分も、それでいいと受け止める。承認欲求は無理して手放す必要はありません。自分から手放してはいけません(p.193)。

手放してはいけない、とまで書かれています。

理由は、たぶんこうです。承認欲求は、人とつながろうとする力そのものだからです。それを自分で切り捨てると、人を求める回路ごと止まります。

当サイトでは執着を手放す方法という記事も書いていますが、承認欲求は手放す対象ではありません。ここは区別しておきたいところです。

尊重する、とは具体的にどうすることか

「そのまま尊重する」は、抽象的に聞こえます。実際にやることは、たぶん一つだけです。

言葉にして、過去形で置く。

認めてほしかった。褒めてほしかった。あのとき、気づいてほしかった。

これを、誰に言うでもなく、そのままの形で書き出す。叶えようとしない。否定もしない。あったこととして置く。

叶えようとすると、今の人間関係に過去の請求書を回すことになります。請求先が違うので、誰も払えません。

30秒セルフチェック

あなたの客席に座っているのは、誰ですか

A:評価する人/言われた一言を何日も再生する・上手にできたかを毎回採点する・失敗すると自分の価値ごと下がる感じがする

B:比べる人/同世代の近況を見ると落ち込む・自分の話をするとき無意識に前置きが増える・成功した知人の話題を避ける

C:がっかりする人/期待に応えられないことが怖い・断ると相手の顔が浮かんで眠れない・頼まれる前から準備してしまう

D:もういない人/親や昔の上司の口調で自分を責める・その人にはもう会っていない・当時の基準が今も残っている

場面別に、客席の顔ぶれは変わる

ひとくちに人の目といっても、場面によって座っている人が違います。分けて見ると、対処も変わります。

職場——評価する人が座っている

ここでは、実際に評価する権限を持つ人が実在します。だから、気にすること自体は正常です。

問題になるのは、勤務時間外にもその席が埋まっていることのほうです。夜、布団の中で会議を再生しているとき、評価はもう発生していません。

手当て:終業時に、その日の出来事を一行だけ書いて閉じる。書くことで、頭の中で再生する必要が減ります。

ママ友・地域——基準が見えない人が座っている

ここがいちばん消耗しやすいのは、基準が明文化されていないからです。何が正解か誰も教えてくれないのに、外れると分かる。

ゴフマンの言う「自分では信じていない基準」が、いちばん濃く現れる場所でもあります。

手当て:全員に合わせるのをやめ、合わせる相手を二人だけ決める。全体という観客は実在しないので、対応できません。

実家——もういない人が座っている

実家で急に子ども返りしたような気持ちになるのは、その場所の客席が昔の配置のままだからです。

親は年を取り、こちらは四十代になっているのに、席順だけが当時のまま残っています。

手当て:滞在時間をあらかじめ決めておく。長くいるほど、昔の席順に戻ります。

SNS——自分で客を呼んでいる

ここだけは性質が違います。他の場面と違って、観客を自分で招待しているからです。

見なければ存在しない観客のために、消耗している。そう気づくだけで、扱いは変わります。

手当て:時間ではなく場所で区切る。寝室に持ち込まない、というほうが実行しやすいものです。

同窓会・同世代——自分が座っている

先に書いたとおり、ここで採点しているのは自分です。相手は基本的に、自分のことで手一杯です。

手当て:行く前に、今日は情報を集める日だと決めておく。評価される場ではなく観察する場だと位置づけを変えると、席から降りられます。

観客の正体を、特定する

ここからが実際の作業です。気にしないようにするのではなく、誰を気にしているのかを突き止めます。

手順1:直近で気になった場面を、ひとつ書く

抽象的に「人の目が気になる」と考えているかぎり、相手は「みんな」のままです。「みんな」には顔がないので、対処できません。

先週でも昨日でもいいので、具体的な場面をひとつ選びます。会議の発言。ママ友との立ち話。実家での会話。

手順2:そのとき、誰に見られたと感じたかを書く

実際にその場にいた人の名前を書きます。三人いたなら三人。

ここでたいてい、妙なことが起きます。書き出した名前の誰も、実は怖くないのです。

怖いのはその場にいなかった誰か、あるいは特定できない何かだと気づきます。

手順3:その基準を、誰の声で聞いているか

「こんなことを言ったら、どう思われるか」の「どう思われるか」の中身を、言葉にしてみます。

出しゃばりだと思われる。分かっていないと思われる。もう若くないのに、と思われる。

その言い方は、誰の言い方でしょうか。

ここで、親の口調が出てくることがあります。昔の上司の口癖が出てくることもあります。見えないオーディエンスには、たいてい元になった人がいます。

手順4:その人は、今もその席にいるべきか

元になった人が特定できたら、最後の問いはこれです。

その人は、今の自分の生活について、判断する立場にありますか。

多くの場合、答えはいいえです。もう会っていない。すでに亡くなっている。あるいは、当時からその判断は正しくなかった。

それでも席に座り続けているのは、こちらが席を用意しているからです。

これは一度で終わる作業ではありません。ただ、席の主が誰か分かっているのと、分からないまま怯えているのとでは、疲れ方がまるで違います。

それでもしんどいときの、5つの手当て

①「思われる」を「言われた」に置き換える

実際に言われたことだけを数えてみます。たいてい、ほとんどありません。

思われている、は推測です。推測を事実として扱っているあいだ、反証はできません。反証できない前提は、いつまでも消えません。

②相手の一日を想像してみる

あなたの発言を気にしている人にも、その人の一日があります。夕飯の献立、自分の親のこと、明日の予定。

冷たい話に聞こえるかもしれませんが、人は他人のことをそれほど覚えていません。これは寂しさであると同時に、救いでもあります。

③失敗を、先に自分で言っておく

気になっている出来事を、こちらから軽く口に出してしまう方法です。「この前の会議、言い方きつかったよね」と自分から言う。

隠しているから重くなる、という部分は確実にあります。出してしまうと、扱いが小さくなります。

④見られる場面を、一日一回だけ作る

避け続けると、想像の中の観客は大きくなり続けます。

小さくていいので、人と接する場面を意図的に持ちます。コンビニで店員さんに一言添える程度でかまいません。実際の反応が入ってくると、想像が上書きされます。

⑤鏡を見る時間を減らす

意外に効きます。自分の見え方を確認する回数が増えるほど、観客の視点が自分の中に居座ります。

確認は一日の始めに一度で足ります。

人の目が気にならない日を、意図的に作る

常に気にしないでいることは、できません。それができる人は、たぶん別の問題を抱えます。

現実的なのは、気にしない時間帯を確保することです。

誰にも見られない時間の質を上げる

一人の時間があっても、頭の中に観客がいれば休めていません。SNSを見ている時間は、一人でいながら客席の真ん中にいる状態です。

本当に一人になる時間は、意識して作らないと手に入りません。散歩、風呂、料理。手が動いていて、評価が発生しない作業が向いています。

「今日は下手でいい」と決めておく

あらかじめ決めておくと、実行しやすくなります。今日の会議は、うまく話さなくていい。今日の返信は、感じよくなくていい。

実際にやってみると、たいてい何も起きません。何も起きなかったという事実が、想像上の観客を少しずつ小さくします。

比べる相手を、意図的に減らす

見えないオーディエンスは、しばしば具体的な誰かの集合でできています。フォローしている人、たまに見るあの人の投稿。

ミュートしても関係は壊れません。壊れるとしたら、それはもともとそういう関係です。

これは相談したほうがいい、という線引き

人の目が気になること自体は、誰にでもあります。ただ、次のような状態が続くときは、自分で扱う範囲を超えている可能性があります。

  • 外出そのものを避けるようになっている
  • 人と会う予定が決まると、前日から体調が悪くなる
  • 買い物や電話など、日常の用事ができない
  • 眠れない、食べられない状態が二週間以上続いている

とくに最後の項目に当てはまる場合は、話を聞いてもらうより先に、心療内科や精神科の受診を検討してください。

それ以外の場合で、自分では観客の正体が特定できないときは、人に話す場が向いています。迷っている段階の方はカウンセリングを受けるべきか迷っている40代へ、申し込みボタンで手が止まる方はこちらの記事もあわせてどうぞ。

なぜ「見えない観客」ができるのか

そもそも、どうして私たちは実在しない客席を作ってしまうのでしょうか。

それは、必要だったから

まず押さえておきたいのは、この仕組みが不具合ではないということです。

人がどう思うかを想像できる力は、社会で生きるために要ります。相手の反応を予測できなければ、会話も仕事も成り立ちません。

見えないオーディエンスは、その予測能力が内側に定着したものです。能力が高いほど、客席は精巧になります。

人の目が気になる人は、他人の内面を読む力が弱いのではなく、強いのだと思います。ただ、その力が休みなく稼働している。

子どものころは、観客が実在した

幼いころ、私たちの行動は実際に見られていました。親が見ていて、教師が見ていて、評価が返ってきた。

そのとき作られた「見られている感じ」は、実在する観客への正しい反応でした。

問題は、大人になって観客が解散したあとも、こちらが客席を維持し続けていることです。もう誰も座っていないのに、椅子だけ並んでいる。

だから、責めても消えない

気にしてしまう自分を責めるのは、消防訓練が身についた人が「なぜ非常口を確認してしまうのか」と自分を責めるのに似ています。

身についたものは、責めても外れません。外れるのは、いま必要ないと確認できたときだけです。

四十代からのほうが、実は外しやすい

暗い話が続いたので、有利な点も書いておきます。

比較の材料が出そろっている

二十代のうちは、まだ結果が出ていないぶん、想像上の観客に反論できません。「このままだと駄目だ」と言われたら、そうかもしれないと思うしかない。

四十代には、実際に生きてきた二十年分の記録があります。あのとき恥ずかしいと思ったことが、その後どうなったか。ほとんど何も起きなかったことを、経験として知っています。

これは強い反証材料です。

失うものの見積もりが正確になる

若いころは、嫌われたら終わりだと感じます。実際には終わりません。

四十代になると、人間関係が減ったり変わったりする経験を何度か通っています。減ってもなんとかなったという実感がある。この実感は、観客席を小さくします。

気にする体力が、そもそも減っている

身も蓋もない話ですが、これがいちばん効くかもしれません。

四十代は、全方位に気を配る体力がありません。使える量が限られているので、優先順位をつけざるをえない。

体力の低下が、結果として客席の整理を進めてくれることがあります。

今日、ひとつだけやるとしたら

この記事には手当てをいくつも書きましたが、全部はできません。ひとつ選ぶとしたら、これです。

今日いちばん気になった場面を思い出して、そこにいた人の名前を書く。

三人なら三人、全員書きます。そして、その名前を見ながら「この人が怖いのか」と一人ずつ確かめる。

ほとんどの場合、誰も怖くありません。そのとき初めて、怖いのは名簿にいない誰かだと分かります。

そこが出発点です。名前のない相手とは、戦えないからです。

おわりに

人の目が気になるのは、他人を意識できる力があるということでもあります。ゴフマンが描いたのは、欠陥のある人間ではなく、他者の前で自分を差し出しながら生きている、ごく普通の人間の姿でした。

問題は、その観客席に、もう座っていないはずの人が座り続けていることのほうです。

今日いきなり全員に退場してもらう必要はありません。ただ、誰が座っているのかを一度見にいく。それだけで、客席はずいぶん静かになります。

「気にしすぎだよ」と言われたときに

相談すると、かなりの確率でこう返ってきます。気にしすぎ。考えすぎ。誰もそんなに見てないよ。

言っている側に悪気はありません。ただ、この言葉はあまり効きません。理由は二つあります。

理由1:観客席にいない人の意見だから

先に書いたとおり、こちらが恐れているのは目の前の相手ではありません。だから、目の前の相手が「大丈夫」と言っても、権限を持つ人の発言にならないのです。

裁判官が違う法廷にいるようなものです。

理由2:程度の問題にされてしまうから

「気にしすぎ」は、気にする量の話です。けれど実際の困りごとは、量ではなく誰を気にしているかにあります。

量の話にすり替わると、「もっと気にしないようにしよう」という無理な目標が立ちます。そして達成できずに、自分を責める材料が一つ増えます。

言われたときの受け取り方

反論する必要はありません。ただ、その言葉を助言としては採用しない、と決めておくといいと思います。

そして、こう置き換えます。「気にしすぎ」ではなく、「まだ客席の名簿を見ていない」。やることが量の削減ではなく、名簿の確認に変わります。

変化は、どんな順番で来るのか

人の目が気にならなくなる日が、ある朝突然来るわけではありません。順番があります。

最初に変わるのは、後片づけの時間

出来事そのものは、相変わらず気になります。変わるのは、そのあとです。

今まで三日引きずっていたものが、その日の夜には手放せている。気にする量ではなく、回復にかかる時間が先に短くなります。

次に変わるのは、事前の準備

人と会う前のシミュレーションが減ります。何を言われるか、どう返すか、という予行演習に使っていた時間が空きます。

この段階になると、疲れ方がはっきり変わります。実際の会話より、準備のほうが体力を使っていたと気づくからです。

最後に変わるのは、意味づけ

同じ出来事を思い出しても、恥ずかしさではなく、ただの出来事として扱えるようになります。

ここまで来ると、人の目が気になること自体は残っていても、生活の邪魔をしなくなります。

なくすことを目標にしないほうがいい、というのはこういう意味です。目標が高すぎると、進んでいるのに失敗判定が出続けます。

よくある質問

人の目が気になるのは、性格の問題ですか

性格というより、想定している観客の問題です。社会学者のゴフマンは、人が目に見えないオーディエンスを想定し、その基準から逸脱すれば罰を受けると信じているために、誰も見ていない場所でも自分では信じていない基準を守ってしまうことがあると書いています。まず、その観客が誰なのかを特定するほうが現実的です。

承認欲求は、なくしたほうがいいのでしょうか

臨床心理士の河村従彦は、承認欲求は無理して手放す必要はなく、自分から手放してはいけないと書いています。承認欲求は人とつながろうとする力そのものであり、切り捨てると人を求める回路ごと止まってしまうためです。目指すのは、なくすことではなく、そのまま尊重することです。

褒められても満たされないのはなぜですか

承認欲求の中身が「認めてほしかった」「褒めてほしかった」という過去形であることがあります。その場合、求めている宛先は今の相手ではなく過去にあるため、今どれだけ褒められても届きません。言葉にして過去形のまま置いておくことが、ひとつの手当てになります。

40代になって、かえって人の目が気になるのはなぜですか

面と向かって評価される機会が減るため、入ってこない情報を想像で埋めることになり、想像は悪いほうに寄りやすいからです。また、悪く見られることより誰にも見られなくなることのほうがこたえている場合もあります。

相談したほうがいいのは、どんなときですか

外出そのものを避けている、人と会う予定が決まると前日から体調が悪くなる、日常の用事ができないといった状態が続くときです。眠れない、食べられない状態が二週間以上続く場合は、話を聞いてもらうより先に心療内科や精神科の受診を検討してください。

参考文献:アーヴィング・ゴフマン『日常生活における自己呈示』/河村従彦『宗教二世、教会二世——自分を取り戻すための心理カウンセリング』

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グレイス
考察好きなブロガー。日々の心の重荷を、心理・思想・歴史・暮らしの知恵から静かにほどく——そんな長文の読み物を「日常の温もり」で綴っています。